人新世のパンツ論②―パンツは世界を掌握する

 そぞろ、夕飯の食材などを買いに、街のスーパーに赴く。
 生鮮食品売り場を離れ、男性下着売り場をうろついてみる。
〈そうだ、今日はパンツを買っていこう〉。
 気がつけば、同世代くらいの女性客(以後マダム)と同じ廉価パンツを物色していた瞬間ほど、生活のしみじみとした感慨に分け入ったあげくの、間の悪さはない。私の手から、“3枚組ウン百円”というあまりにお得な柄物のトランクスのパッケージ商品が、しらっとした空気の中で、手から滑り落ちた。
 この恥ずかしさは一体なんだ? その正体がよくつかめない。

【ダマ(毛玉)ができても尚穿き続けたパンツの物悲しさ】

 ちょっとまて。
 恥ずかしいとは一体なんだ?
 もう一度繰り返すぞ。恥ずかしいとは一体なんだ?
 真に辱めを受けなければならないのは、私ではなく、マダムに自分のパンツを買わせている、旦那の方ではないか。
 あるいは旦那が、奥さんに自分のパンツを買わせているのではなくて、奥さんが自発的に、旦那のパンツを買いに来たのかもしれない。あれが、あまりに汚くて、酷いから、耐えられなくて――。

 酷い話じゃないか。しかし、心理的な家父長制もここまでくると、アホみたいな話である。“3枚組ウン百円”のお買い得な柄物トランクスのパッケージ商品に手が伸びて、見事にそれを買い物かごの中に放り込んだマダムの行動は、清々しいものであった。
 そうしてしばし私は、はたと気づき困惑する。あのトランクスを穿くあるじは、婚姻関係における旦那ではなく、もしかすると愛人ではないのか。
 あるいはそれとも、住まう家の地域で名の知れた、元気なおじいちゃんかもしれない…。嫁さん、ありがとう…。

 大多数の男性にとって、メンズ下着はその存在の価値が認められていないのではないか。また、存在の黙秘の対象に貶められていやしないか――。
 だとすれば、私はいいたい。
 メンズ下着すなわち男が穿くパンツは、本質的に、その者のアイデンティティであり、確固たる同志であり朋友なのだと。パンツは、あなた自身のことを、全てお見通しではないかと。
 政治家が裏金づくりのために政治資金パーティーをやる。パー券にノルマがあって、それを超えた分が帳簿には載らない裏金となる仕組み。
 私は賢い子が好きだ。「お母さん、今日帰りにイオンでパンツ買って帰るから、お金頂戴」。
 母親からお金を受け取ったその子は、パンツなど買わない。アメコミのフィギュアが欲しいので、ちょくちょく親を騙して小銭を貯めているのだ。1週間後、その子はまたイオンでパンツを買って帰るからといって、母親にお金頂戴とせがむ。母親はお金を渡す。1ヶ月に何度この子はパンツを買うのか、などと母親は子に聞いたりしない。そのうち洗濯機の中でぐるぐる回転しているパンツが古いことに気づいた母親は、子に訊ねる。あなた、最近パンツ何枚も買ってるはずだけど、新しいパンツはどこ?
 賢い子は嫌な顔をせず家の手伝いも毎日していて、今まさに屋外のゴミ置き場に出そうと、燃えるゴミの入った70リットル用のポリ袋をかついで一汗掻いている。その半透明の袋の中に、大きなロゴで赤っぽい、フィギュアの箱らしきものがきちんと折りたたまれているのに母親はすっかり感心した。「うちの子、掃除だとかゴミ出しが上手ね」。親は騙せても、パンツはあなたの全てを知っている。

 結局のところ、私は単に、自分の穿くパンツの正体が知りたいだけなのだ。存在の黙秘の対象が、虐げられつつ、なにゆえにそうなってしまったのか――。
 こうした考察を、「人新世のパンツ論」と称し、男性が穿くパンツに関する知識を深め、その身のこなしを洗練させようではないかと考えている。むろん真の意味でだ。
 前回は、そのプロローグだったが、今回の②のテーマは、「パンツは世界を掌握する」である。

【2023年11月28日付朝日新聞朝刊「ストッキング 復権の兆し」】

ミュウミュウのストッキング・ファッション

 先日、新聞を読んでいて、ある美しい写真に釘付けになった。
 それは、イタリアの高級ブランド「ミュウミュウ」(miu miu)の、23年秋冬コレクションの写真(2023年11月28日付朝日新聞朝刊「ストッキング 復権の兆し」)である――。

 驚くべき風貌ではないか。
 ショートカットの女性のモデルが、黒茶系のストッキングを穿き、オリーブ色の極小ビキニのパンツ(生地はカシミアとウールか?)を穿いている。《ストッキングのウエストゴムの部分にあえてトップスのすそを入れ、ブランドロゴを見せる着方を披露し観客を驚かせた》。しかも、そのオリーブ色のパンツから、白いアンダーウェア(?)が、遠慮深さのかけらもなく、あちらこちらからはみ出ているではないか。このファッションの奇抜さはいったいなんなのだろう。

 目に留まるオリーブ色のビキニは、あくまで外着なのである。が、しかし、その下に穿いているアンダーウェア(?)がはみ出している理由が、私にはよく理解できなかった。

 このスタイルを貫いているのは、まさにストッキングの効用だ。透ける生地で素肌を強調し、これぞストッキングの復権――服装のカジュアル化で国内の供給量はこの30年で激減したそうだが、ここにきて「下着のファッション化」の再燃をもたらした――すなわち「肌見せファッション」の新しい流行なのだと、新聞記事を要約すれば大凡、そういうことになる(記事の筆者は長谷川陽子)。
 なんということだ。
 ストッキングをズボンのようなボトムスに見立て、「ボトムレスルック」がトレンドなのだと。私にとってはにわかに信じがたいことだが、これがミュウミュウなのだ。

 であるならば、古びたファッションのセンスを一新しよう。
 女性の「肌見せファッション」=「ボトムレスルック」の流行に呼応して、若者男子もこれに便乗し、センシティティブな「ボトムレスルック」を開拓すべき時代ではないのか。いや、もはやそういう流れは、始まっているなのかもしれない。
 いわずもがな、男性による「肌見せファッション」のイマジネーションが、具体的な「パンツ見せ」とどう関わってくるのか。
 私の関心事は、近未来的なメンズウェア・ファッションの一端を、このミュウミュウのストッキングむき出しのトピックからナイーブに連想せざるを得なくなってきたことであった。

ブロガーひろひろさんのパンツ論

 ひとまず、話題を変えてみる。
 実は前回の「人新世のパンツ論①―プロローグ」を投稿した直後、私の「推し」の人でもある、こよなく映画を愛するブロガーのひろひろさんが、我がパンツ論の奇天烈な展開に共鳴(!?)してくれたようで、自身のnote.comに、「パンツを買い替えようと思っているのですが。」という記事を投稿しているのを知り、私は、率直に驚いた。
 ひろひろさんの丁重かつ律儀な振る舞いに、深く感謝したい。

 20代の若者であるひろひろさんはこの年末、自分のパンツを「総取っ換え」しようと企んでいた。そこで私のブログが目に留まった――。
 自身のパンツのご一新を、“需要の無いカミングアウト”と謙遜しているが、そんなことはない。元FRB議長グリーンスパン氏が提唱する「男性下着指数」(MUI=Men’s underwear index)の最新のデータを上書きする、貴重な試算的証言だからだ。いっそのこと、日本中の男性がこの年末にパンツをご一新していただけたらという話である。

 それはともかく、ひろひろさんの「パンツを買い替えようと思っているのですが。」を読んで、私は新たな知見にハッとなって気づき、さらなる驚きと感動を覚え、その先のパンツの未来像が見えてきた次第なのである。
 ひろひろさんがパンツの「総取っ換え」を企図した理由については、その投稿記事を読んでいただくこととして、ここで私が取り上げたいのは、「自己顕示欲としてのパンツ」で示されていた、“学生時代”の「腰パン」についてなのだ。

あらがう魂の腰パン

 まず、「腰パン」とは何か。
 あらかじめ定義しておくと、いわゆるSagging(Saggy Pants)のことである。
 外着のボトムスであるズボンやパンツを、骨盤の腸骨の低い位置に穿き、インナーウェアが露出して見える状態を指す。

 これに関しては、ウィキペディアが詳しい。
 もともと、囚人がベルトの無い大きめのサイズの囚人服をずり落として穿いていたスタイルが、のちにヒップホップ系の文化と結合して広まった――という説が最もよく知られている説のようだが、1930年代以降のズートスーツ――低所得者層の黒人やメキシカンがまにあわせのダボダボのジャケットと細いスラックスを穿いていたスタイルが始まりではないかという説もあり、原初の確定的なものはない。
 いずれにしても「腰パン」のスタイルは、フォーマルの規範となる着こなし方を真っ向から拒否し、あえてそれをくずしてみせて、社会的実存の確立に乏しい意識が反抗的な態度に傾斜し、「抗えったまま」の具象化であるといえそうで、日本においては、90年代後半、中高生のあいだで、男子学生の制服の着こなしに見られたスタイルだともいう。むろん学校内における「腰パン」のスタイルは、下着が露出しているという観点から、およそどこの学校であっても校則違反に抵触していたと思われる。

 ひろひろさんの投稿によると、学生時代に「腰パン」が流行り、制服であろうが体操服であろうが普段着であろうが、「腰パン」一辺倒の雰囲気だったようである。
 総じてこのスタイルは、インナーのパンツが丸見えになることで、他人が穿いているパンツが見えることに対する、ある種の迷惑や不謹慎的な心のゆらぎはあまり感じられず、《むしろ人様に見せる“ファッション”》ということを強く感じていたという。
 この場合、Sagging化したボトムスのズボンよりも、インナーのパンツの形や色なり柄なりが露骨に見える(見せる)ファッションという点で、先述のミュウミュウのストッキングのファッションと同様、インナー自体を見せてしまう(見られる)潜在的な「ボトムレスルック」だったのではないかと思うのだが、どうであろう。

旺盛なトレパン派だった学生時代の私

 私もカミングアウトしてしまえば、学生時代に人前で「腰パン」をした経験が無いのである。
 団塊ジュニア世代であるがゆえ――と同時に、地方の片田舎に住んでいるということも相まって、外来のヒップホップ系の文化の流入がかなり遅く、ちょうど20代に直面した頃にそれが重なり、ヒップホップ的文化の素養なり嗜好を、自意識の中で塗り固めていくには、あまりにも鈍感すぎたのだった。

 中学校で紺色のトレパン(ナイロン製のトレーニング用ショートパンツ)が指定の体操服の一部となり、インナーの「白のブリーフ」(白以外のパンツを穿くことは校則で禁じられていた)の上にこれを穿くようになった。小学校で穿いていた白のトレパンよりも、一回り長めのトレパンで穿き心地は悪くなかった。
 教室内で学生服のズボンを脱いでジャージに着替えるときは、トレパンのおかげで、インナーを人前に晒すことがなくなったのである。これは画期的だった。思春期で下着への羞恥心が芽生えていた頃でもあり、単に夏用の体操服としてのパンツではなく、インナーを見せないための防護パンツとして役に立っていた。そのため、誰もがこの紺色のトレパンを愛玩したのである。

 中学を卒業した後の母校の工業高校でも、これとほぼ同じトレパンでさらに一回り長めのサイズとなり、色は紺ではなく、紅色に変わった。もちろん学生たちの使い勝手はほぼ画一化していて、インナー隠しのアイテムとして重宝した。
 ただし、母校の工業高校では、中学生時代と同じ「白のブリーフ」を穿く者は、おそらく少数ではなかったか。男子にとっていちばん嫌われていたのが「白のブリーフ」だったので、皆これを穿くことを拒絶し、柄物のトランクスを穿くようになったのである。

 したがって、トランクスの上にトレパンを穿くと、トランクスの生地の端っこが、トレパンからはみ出ることがしばしあった。
 トレパンの下(太腿部分)から、トランクスの柄物の生地のチョイ見え――。これはあまり、見映えとしては良くない。ダサいというしかない。
 しかし、「白のブリーフ」を拒絶して柄物トランクスを穿くようになり、総体的な見映えよりも、パンツを隠すという目的意識に縛られていたので、これでもよしとしなければならなかった。若者としての肉体的な美意識を整えるどころか、手早いオヤジ化の一途をたどる些末ではないか。
 もう一つ、大事なことは、白であろうが他の色であろうが、ブリーフそのものと縁を切りたかった、離縁したかったという心理が働いていたのである。

 これぞまさに、私自身の“需要の無いカミングアウト”になるが、そうした学生時代を過ごしたため、20代を過ぎる頃まで、ボクサーブリーフなるものとは全く無縁で、トランクス一辺倒で若者と呼ばれる時代を無駄にやり通してきてしまったのである。言い換えれば、青春のステテコ時代である。下着への価値観は、あるわけがない。

新しいパンツ時代のジェネレーションレフトから学べ

 ひろひろさんの学生時代に流行った一種の現象――「腰パン」の着こなし方は、その歴史的な背景も踏まえて、大いに参考になるのではないかと思っている。
 「腰パン」の歴史を探ることと同時に、新しい時代の「腰パン」を創造してみるのはどうだろう。負の沼地帯とも思える、団塊ジュニア世代の男性の、“青春ステテコ時代”の遺伝的記憶を捨て、新たな価値観と試みで、インナーを着こなしてみたい。

 私の母校の中学校の校則で、下着は「白のブリーフ」のみ着用云々がまかり通っていたことは、前回述べた。恐るべき校則である。
 下着はファッションどころかその色や柄の選択肢も全て否定されたところに、昭和時代の若者の悲劇が深く根ざしていた。
 次回は、「白のブリーフ呪縛」に迫る。「人新世のパンツ論③―紫から白のブリーフ呪縛へ」はこちら

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