『江戸川乱歩傑作選』より「赤い部屋」

 当たり前のことを書くが、書店では本を売っている。その確固たる書店が、あちらこちらで閉店していると聞く。名の通った大手の書店さんですら店じまい、もしくは撤退しました、といったニュースを、私はこの1年足らずのあいだ、何度目にしたかわからない。

散歩で150エンなり

 紙の文化の担い手であり、直接お客さんにそれを届ける商いの書店さんを、なんとか救いたい――という邪な気持ちが、私の心の中で綺麗事のようにずっとあった。昨年、ヘミングウェイの文庫本を買いに行ったあの書店さんに、ついふらっと、何日か前にまた行ったのだった(「ヘミングウェイを買いに東京に行く」)。

 片田舎のわが町にある、駅ビル内の書店。いつもなら私は県外で買っている文芸雑誌『小説すばる』(集英社)を、今日はその店で買って帰ろうかと考えた。ちょうどその日が、『小説すばる』最新号の発売日だったからだ。
 昔と違い、書店の近くにあったはずの駐輪場は、だいぶ以前から別の目的の設備に置き換わっていて、そこに自転車を止めることができない。したがって、数百メートルも離れた場所の、JRの高架の下の有料駐輪場に自転車を止めなければならなかった。
 その駐輪場は帰る際に、出口で150円(1日分)を払うことになるのだけれど、そんな離れた所に自転車を置いて、わざわざ歩いて駅ビルに向かうのはとても億劫だ。しかし、買い物の時はそうしなければならない。
 そもそも、めったに利用しない駅なのであった。駅ビル内で買い物など、普段はしない。――いざ、書店へと向かう。そこに雑誌コーナーがある。隅のほうに、英会話などの教養雑誌が並べられている。視線はそのあたりに集中する。だがいくら目を凝らしても、そこに『小説すばる』らしい雑誌は、見当たらないのであった。

 なぜか緊張感を覚えた。そして次の瞬間、虚しさが込み上げてきた。

 これはオチでもなんでもないのだ。
 つまりその書店では、根っから『小説すばる』という文芸雑誌を、置いていないのだった。英語でいうと、こんな感じだろうか。
 That bookstore doesn’t actually stock the novels magazine “Syosetsu Subaru”.

目を閉じて、何も見えず
哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より
他に見える物はなし

 谷村新司さんが歌う名曲「昴」の歌詞である。
 わずかながらそこにあった文芸雑誌は、『文藝春秋』と『GOAT』(小学館)だけであった。

 この書店では、それ以外の文芸雑誌――例えば、岩波の『世界』とか、『文學界』(文藝春秋)も置いていない。『小説新潮』(新潮社)も無いどころか、あの『新潮』ですらナッシングなのだ。文芸雑誌らが発するであろう特有の香りは、この書店からは決して放たれないのであった。なぜなら、そこに彼らは、存在しないのだから。

我は行く さらば昴よ

 こうして私は、さらに空疎な気持ちで「昴」を歌い上げるのだった。
 足を運び、息を荒げ、紙の文化の担い手である書店さんを救おうだなんて、もうその手の邪な気持ちは捨てようかしら。でもね、さらば昴じゃないんだよ、『小説すばる』は必要なんですよ!!!

プリンスプリンスの名探偵コナン

 どこの書店へ行っても、その主役のキャラを見ることができるのは、名探偵コナンだけである。これは間違いないことだ。いや、ひょっとして、クイズにしたほうが良かったかもしれない。
 数十年前まで、出版業界の大いなるプリンスだったのは、ドラえもんだ――と、私は認識している。ところが今や、名探偵コナン。コナンの長い全盛期なのであった。
 平易なことをいえば、子どもたちの身の回りには、いつもコナンがいるのだ。コナンの本を読み、コナンのグッズで溢れ、ソックスだってコナン。どこをつついても叩いても、コナン、コナン、コナン。コナンが出てくる。
 もちろん、それは子どもに限らない。
 私の友人(30代)は、リアルタイムでどっぷりと浴びてきたコナンのファンだし、私自身がいつも飲み慣れているジョージアの缶コーヒーでさえコナンとコラボっていたりして、彼の飄々とした顔を日頃眺めているのだ。

 今更、説明する必要はない。が、一応付け加えておく。

 名探偵コナン(=江戸川コナン)は、シャーロック・ホームズシリーズで知られる作家コナン・ドイル(Conan Doyle)の名が由来である。
 ちなみに“江戸川”は、名探偵明智小五郎で知られる作家・江戸川乱歩からきている。はい、お見事。御名答です。クイズだったら誰でも答えられるはず。だから、もうそれ以上に説明する必要はないのだ。
 その“江戸川”の乱歩さんが書き上げた無数の作品の沼に、ズブズブと、足から腰から胸からアタマまで踏み入れてしまった私の小学校時代の話は、もうとっくに書いてしまっている(「江戸川乱歩から始まった私の小説旅」)。ところが、高校を卒業してまもなく、突然再び乱歩に目覚めた痕跡が、一冊の本の所有から確認できるのだ。その本は、新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』である。

復古した一瞬のきらめきの乱歩熱

 赤と黒を基調にした装幀画――。指紋と鎖と鍵。
 “江戸川乱歩傑作選”の字体も、流麗とした明朝体で、遊びや綻びがない。

 どういう理由でこの本を当時――1991年から1年ないし2年未満のあいだ――買い求めたか、全く憶えていない。
 しかし高校卒業後、東京・上野まで電車通学していた時期に、この本を買って読んでいたことはほぼ間違いなく、多少なりとも、小学校時代の“乱歩熱”にノスタルジックな思いを抱いたのがきっかけだったのは、確かであろう。
 それも長くは続かなかったのだと思う。
 私の溺愛する文学嗜好の遍歴は、おおむね漱石から三島由紀夫へ、そして司馬遼太郎へと推移し、彼らの作品に傾倒していたからである。
 いわば乱歩は私にとって、〈あれは本当に純文学といえる小説だったのか?〉という一抹の不安を抱えながらの、児童向けの探偵小説、あるいは大人に媚びたエログロの通俗小説だった。そういう偏見のレッテルを切り貼りして胸の内におさめていたのが乱歩の存在であり、その認識から免れられなかった。つまりあの頃は、その程度だったのである。

 ああ、そうか――。ここまで書いて、ようやく思い出した。
 平成期の初め、“人間椅子”なんていうバンドが流行っていたっけ。

 この“人間椅子”というバンド名が、乱歩の短篇小説「人間椅子」に拠っていることは明白だ。それがきっかけとなって、私は乱歩を思い起こし、“傑作選”を買い求めたのではなかったか。
 蛇足ながら、“人間椅子”のバンドの、当時のミュージシャンを列記しておく。和嶋慎治(ギター、ヴォーカル)、鈴木研一(ベース、ヴォーカル)、上館徳芳(ドラムス)。

乱歩の短篇「赤い部屋」

7人の男たち

 令和の時代になった。過去の何もかもが遠い日々の幻影となっていった。
 そうして、あの頃の“乱歩熱”が私の中で、ふたたび蘇ったのだった。
 手元にあるのは、数冊にも満たないポプラ社版の「少年探偵」シリーズ。それと、昨年新たに買い揃えたばかりの光文社文庫版の『江戸川乱歩全集』(全30巻)――。これ以外に所有している本は無いと忘れかけていたところ、『江戸川乱歩傑作選』の一冊が出てきた。

 『江戸川乱歩傑作選』は、その乱歩のおどろおどろしい世界観が凝縮されている珠玉の短篇集であるが、このうちの一つ、「赤い部屋」はなかなかの佳作である。

 赤い部屋に、7人の男たちが集まっている――。
 「私」も含め、それぞれの秘密めいた《怪異な物語》を聞く場の、偏執的な男たち。この赤い部屋に関する描写が、また実におどろおどろしいのだ。

七人のまん中には、これも緋色のビロードで覆われた一つの大きな丸いテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台にさされた三梃の太いロウソクが、ユラユラとかすかに揺れながら燃えていた。

江戸川乱歩『江戸川乱歩傑作選』「赤い部屋」より引用

 それ以降に続く描写も、乱歩らしく淫猥じみている。
 部屋には、《真紅の重々しい垂れ絹が豊かな襞を作って懸けられ》、ロウソクの光。真紅の垂れ絹は、《静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色》をしていると表現し、ロウソクの光に揺られた7人の《影法師》が、《幾つかの巨大な昆虫ででもあるかのように、垂れ絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら、這い歩いていた》

 この部屋で、話の出番となった「新入会員のT氏」が、《怪異な物語》を語りだすのがこの短篇の筋である。

 世の中に、全く退屈しきってしまったT氏の思いがけない秘策…。
 それは、善良な市民のツラをして悪事を働くこと。つまり、計略的な殺人であった。

悪辣なる殺意

 恨みのある者を殺すのではない。全く見ず知らずの他人を殺すのである。その殺し方は、直接手を下すのではなかった。例えば、こんな方法。
 あるお婆さんが、田舎道で線路の踏切を渡ろうとしている。踏切であるから当然、《自動車や自転車や馬車や人力車》も渡り通る。そうした煩雑な往来で、お婆さんは多少、頭が混乱してしまうのだった。
 お婆さんが渡ろうとしている最中、急行電車か何かがやってくる。そのままなら、お婆さんはなんてことはなく渡り切ることができるだろう。
 だが、わざと、T氏が大声で「お婆さん危ないっ」と叫ぶのだ。するとお婆さんは、すっかり慌ててしまい、その場に立ち尽くしてまごつく。もう既に眼の前に電車が迫ってきていて、急停車する様子もない。最悪、お婆さんは電車に轢かれてしまう――。
 そういう方法で、T氏はある田舎で一人、殺してしまったのだという。

 踏切でわざと「危ない」と大声を上げ、渡る者を慌てさせる。轢かれる。事故死である。
 物事の額面上、誰が見てもそれは、事故死ということになるだろうが、本質的には、かれT氏の計略的な殺人なのであった。相手は見ず知らずの者であるが、明らかにT氏には殺意があった。
 そんなようにして、日々の退屈さから一変し、T氏は、その他の様々な方法による“間接殺人”に精を凝らすようになり、興奮の日々を味わうようになった。なんと99人も、人を殺めてしまっているのである。

 赤い部屋で、こんな話を聞かされた他の8人は、正気でいられるわけがなかった。あまりにも酷い、むごたらしい話。T氏は紛れもなく殺人者であり、異常かつ偏狂的な男である。その場の空気を、乱歩はこのように表現している。

彼は幾分血走った、そして白目勝ちにドロンとした狂人らしい眼で、私たち聴きての顔を一人一人見廻すのだった。しかし誰ひとりこれに答えて批判の口をひらくものはなかった。そこには、ただ薄気味わるくチロチロと瞬くロウソクの焔に照らし出された、七人の上気した顔が、微動さえしないで並んでいた。

江戸川乱歩『江戸川乱歩傑作選』「赤い部屋」より引用

§

 この「赤い部屋」の終盤に差し掛かったあたりの文章を読んでいて私は、もうこれは恐ろしい話というよりも、あまりに酷い、愚劣な作品じゃないかと思ったので、ここで本を閉じてしまおうとさえ考えた。内心、〈乱歩って意外なほど狂った作家じゃないか〉と忌避し、呆れ返ったのも事実である。

 ところが、もう少しねばってこの先を読むと、それがそうではないことが、わかる…。

 なんと。
 やはり、乱歩は狂った人ではなく、冷静緻密な人だったのだ。良識のある人だったのだ。偉大なるエンタメ作家であり、それが頷ける結末を迎えるのだった。ああ、そういうことなのか――。

 少なくともかの新潮文庫が、これを“傑作選”と標題に掲げ、乱歩の短篇作の定本として世に出しているのだから、未読の方は混乱せずに、安心してお読みいただきたいのである。恐縮至極、そこは私を信用していただいて、存分に恐怖を堪能しながら、妖しい乱歩の世界にどっぷりと浸っていただきたいのだ。

 かくも私は10代の末、もしくは20代の初めに“傑作選”を読み、何を思ったか。何を感じたか。

 多少エログロ――扇情的な表現とグロテスクの掛け合い――の作風であるけれども、むろんそれが乱歩の文体の軸であって、決してナンセンスな基調にはなっていないのである。
 そうした今の私の見解に、おそらく賛同し得なかったであろう青年期の私が、残念ながらそれ以後、乱歩文学を敬遠してしまったかのようにも思えるのだけれど、言語道断、その頃の私にいってやりたいのだ。
 ともかくおまえは、乱歩の生き血を吸って育ったのだ。恵まれて乱歩の本に出合えたおまえは、何が本当に幸福で、何が本当に怖いもので、何が本当に悪人であるかを見抜ける行動的な才気を、発揮すべきなのだと――。

 あの時の『江戸川乱歩傑作選』の一冊が、数十年の年輪を刻んで手元に残っていたことが、何よりも嬉しいのだった。

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