岸本佐知子さんのEDOからタコへ

 またもや岸本さんがやってくれた。
 翻訳家でエッセイストの岸本佐知子さん。筑摩書房のPR誌『ちくま』2025年3月号(No.648)の「ネにもつタイプ」。今号のタイトルは、「EDO」。
 このEDOは、紛れもなく“江戸”を指している。江戸時代への示唆と、江戸=(現在の)東京の意味も、それなりに含まれているかと思われる。

寒いと現れる江戸人

キスマイを聴けば耐えられる

 岸本さんは、寒い冬がお嫌いらしい。《何年たっても受け入れることができない》と述べている。

 そういえば私も先日、偶然ながら家のエアコンの一つが壊れて、空調がすっかり“溜息”しか出なくなってしまったため、重い腰を上げて新しいエアコンの取り替え工事をおこなった。むろん工事をおこなったのは請負業者さんなのだけれど、その工事が始まるまでの数日間、部屋の中が異様に寒く感じられ、朝と夜など凍えるような体験をして、めっぽう岸本さんの文章が際立って身に堪えた次第なのである。

 いや、そもそも冬は「寒い」と相場が決まっているのだから、誰だって冬は嫌いじゃないの? と思ったりもする。
 それも冷静に考えれば、ちょっと主観的すぎるのかもしれない。寒いのだーい好き!!!――な人だって、この世にいるかもしれないのだ。たぶん、ごく少数派だと思うけれど。

 私の場合、エアコンが壊れて、その凍えるような寒さをなんとか凌ぐことができたのは、キスマイ(Kis-My-Ft2)の「Past & Future」のおかげだった。
 「Past & Future」を聴いたことがない、あるいはキスマイを知らない人からすれば、お前はいったい何をいってるのか? と思うだろうが、そのファン筋の人で、あの曲を何度も聴いたことがあるのなら、なんとなく私がいっていることが理解してもらえるのではないかと思う。
 キュンとくるでしょ。それに未来志向で、ヴェルディの歌劇「アイーダ」の大行進曲よりも断然かっこいいし、宮田俊哉さんのあの特徴的な、しとやかな野太い声を聴くと、寒さで挫けそうになる心が、沈まずに浮き上がれるのだ。
 ランララランララ、ランランラン。ランララランララ、ランランラン。

ホームレスのおじさん

 話を戻す。「EDO」。
 岸本さんの場合、お嫌いな冬になると、体のどこかから声がするのだという。《ああ、これでは冬はとても越せん》――。
 初老のしわがれた男の声、だそうである。
 それって、隣近所のおっさんの声が耳に入っただけじゃないのか。いや、違うのだ。あくまで、《私の中に住んでいるホームレスのおじさんの声だ》
 「私の中」に住んでいるおじさんは、ホームレス??? これ如何に。
 なんとも不可解なおじさん、というか現象である。しかし、岸本さんはポロッと書いてしまっているのだった。ご本人が、“ホームレス目線”なのだと。そういう目で世界を見てしまうのだと。

 なんのこっちゃ。

 奇妙なことに、この初老のおじさんは、現代社会の利便性にまで言及するらしい。

やや。や。これは何としたことか。麒麟か。天狗か。速い速い、目が回る。助けてくれえ。

『ちくま』2025年3月号、岸本佐知子「EDO」より引用

 いったい何のことかというと、岸本さんが自動車に乗った時、そのおじさんはたいそう驚くのだった。岸本さんはこう述べている。
《なにかにつけ江戸の人目線で物事を見てしまうので、街を歩いていても心が休まる暇がない》
 それならどうか、タクシーで上野駅近くまで乗り付けて、あんみつ屋さんの「みはし」でお汁粉を食べ、体を休めてほしい。

 自分の体から声がする、というのは、なんだか朝井リョウさんの『生殖記』みたいな話になってくるのだけれど、正気とは思えない。時にこの声は、お侍さんになるようで、現代社会の利便性に係る《理解を越えた事象》に出くわすと、なんと刀を抜くそうである。
《うぬれ面妖な。斬る》
 むろん、斬られるのは、岸本さんである。

江戸とタコ

 気分的なミニマリストである岸本さんからすれば、これから語る私の江戸の思いつきは、容赦なく毛嫌いされてしまうものかもしれない。

 最近、NHKの大河ドラマを観ている影響で、私も頭の中で、ツタジュウ、ツタジュウと声が聞こえてくるのだ。その声は決して初老でもホームレスでもないが、江戸の人でもない。
 しかし、これまた最近、江戸川乱歩の小説に傾注している私は、そのいわば乱歩文学のエログロ路線の傾向から、“エロ・グロ・ナンセンス”というキーワードに飛び火し、葛飾北斎の“タコ入道”が描かれた浮世絵を思い出すのだった。

 そうか、タコか!

 少し前、スーパーでタコ(蛸)がずいぶん高くなった――というニュースを見聞した。今やタコを買うより、マグロを買ったほうが安い、というオチ。これは決して笑い事で済む話ではない。
 そのうち今度は、タコよりもコメのほうが深刻になって、高すぎて買いづらくなり、コメの消費量が大幅に減るのではないかという懸念が生じてきている。
 日本人のアイデンティティが徐々に失われ、コメ・エクソダス化しつつある世の中となっては、福澤諭吉を見る機会も、以前と比べて減っている気がしないでもなかった。
 それはそうと、タコ。
 タコは現代においても、醜さの象徴ともなっている。北斎が描いた「蛸と海女」より以前に、タコが描かれた浮世絵がある――と教えてくれたのは、オフェル・シャガン(Ofer Shagan)著『わらう春画』(朝日新書)であった。それは天保期(1830~1844年)の絵だそうで、絵師は誰だかわかっていないという。

 それってどういう絵ですか? という質問に対して、ここではあえて画像を出さずに説明だけで凌いでおきたい。

 タコを食べようと鍋に入れた、ちょっと肥満気味の女性。
 それも当時としては、醜さのイメージの、いわばメルクマールみたいなものだったらしい。タコも醜さの象徴であるが、肥満気味の女性も滑稽なイメージに躍らされているといった具合。
 要するに、タコを鍋に入れたまではいいが、そのタコに反撃されて――タコの足(※一般、それを「足」と呼んでしまっているが、学術的には「腕」らしい)が女性に絡みつき、そのうちの1本が、ヴァギナ(膣)に伸びてきて、女性の性欲が満たされてしまう…という、なんとも諧謔を通り越したメルヘンチックな絵。

 一言でいえば、食欲よりも性欲――。
 先の、日本人のアイデンティティの話にもつながるが、江戸時代において、日本人の食文化の発展は凄まじいものがあった。人々の大いなる「食欲なる夢想」が、ついに革命的に花開いたかのようであり、なぜゆえにそれが花開いたかと申せば、推測するに、性欲あっての食欲――ということになるのだろう。
 本当は男が欲しいけど、タコでもいいわね。

 こんなことを絵に表現されたら、たまらない。世界に誇っていい夢見る寓話じゃないか。これをまさに、春画という。
 それを描いた絵師が不明であることについても、また、もともと私が想起した北斎の「蛸と海女」についても、いずれ調べてみたくなったので、このトピックはそのうち別稿で。

§

 ごちゃごちゃした話をまとめる。
 たとえ、うぬれ面妖――といわれようと、私は乱歩が好きだし、斬られてしまう岸本さんも好きである。
 ツタジュウから北斎、そして北斎のエロ・グロ・ナンセンスから乱歩へ。これは一本の線でつながっているのではないだろうか。要するに、そういうことなのである。

 私もタコの足、いや学術的に腕らしいが、おもいきりそれの吸盤に吸い付かれてみたい。江戸話は、なかなか面白いものだ。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました