昨年までずらりと本棚に並んでいた朝井リョウさんの本を整理して、『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社)の1冊しか残っていないと先々月書いた(「朝井リョウさんの各各の書評から」)。
命がけで小説を書いてきた作家さんからすれば、たぶん迷惑な話かもしれない。だが決して、嫌がらせではないのだ。私の家の中で、朝井さんのライブラリーが減った理由については、そこで述べたことになる。
一見するとそれは重々しい話のようにも思えるが、あれからどういう心持ちの変化だったのか、自らのそれを窺い知るすべがないのも事実であり、ひょんなことで、もう1冊だけ“朝井さんが書いた本”が増えた。
“朝井さんが書いた本”という表現は、少し不適当である。
伊坂幸太郎、石田衣良、白石一文、荻原浩、朝井リョウ、橋本紡、越谷オサムの共著。『最後の恋 MEN’S―つまり、自分史上最高の恋。』(新潮文庫)。
文庫本としては2012年6月に刊行されているが、ここに収められているそれぞれの作家さんの短編小説は、『小説新潮』2011年12月号に掲載されたもので、ずいぶん前の本ということになる。
なぜ今、この本が私の家の書棚に加わったかというと、ずばり恋愛モノの内容だったからだ。“自分史上最高の恋”と称するタイトルのコピーに惹かれ、それが“最後の恋”とも等分であることに、めっぽう関心が高まった。何より、この本に朝井さんの短編小説が一編収められているという事実が、唐突に心をえぐられたかのごとく鋭い痛みの電流となって体内を駆け巡ったことはいうまでもないのだ。

ふたたび朝井さんの書評
『週刊文春』(文藝春秋)で連載されている「私の読書日記」。6人の著名人(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川宏満、橋本愛、朝井リョウ)が交代で毎週執筆する書評コラム。
先々月以来、また朝井さんの番が回ってきたのだった。そこでの書評――「幸福について考える」について、今回は紹介することにする(2025年2月27日号)。
それにしても、つくづく思う。
他の執筆者と比べて、朝井さんの前のめり的な読書が、ハンパないのだ。一歩引いたところがなく、常に前のめりなのである。読書の態度そのものが――。
少し穿った見方をすれば、朝井さんは、この「私の読書日記」の読者のために書いている、という感じではない気がする。つまり、ほとんど自分の煩悩や迷いをどう解決したらよいか、そういう内向の定点観測のつもりで書いている。できうるなら解消したい、とも思っている。いや、彼の読書態勢それ自体、自分の内野の煩わしさから逃れるため、なのではないかという節さえある。
だから書き記した文章に、あからさまな苦心が見られるのだった。
ここでのキーワードは2つ、「盲信の快楽」と「快」。
この2つのキーワードが、自身の幸福とどう結びついているか、というのがテーマ。
修行僧並みの修行による快楽
朝井さんは岡村靖幸著『幸福への道』(文藝春秋)を読んで、シンガーソングライターの岡村氏が対談したゲストの一人、村田沙耶香さんの“断食修行”からくる幸せ感についてふれている。ここではそれを、「盲信の快楽」と称している。
村田さんは“断食修行”をおこなったのだという。
どういう内容か――。要約すると、それはまさに断食の修行なのだけれど、それに付随することとして、かなり早朝に起床したり、寺の境内を掃除したり、長時間のお経や山の登り下り、海に歩いていって浜辺の砂を掘り、自身の身体を埋めたりなど、60日間のハードな行程なのだそうである。そうした修行僧的な生活行動・様式によって、村田さんはだんだんと、「命じられたまま従うことの快楽」を覚えた、というのだ。
たとえ意を異にしていたとして、それでもそのうち、命じられたまま決められた行動に従っていくと、それが快楽的に心地良くなり、なんの苦でもなくなる、魂と魂のエーテル的なトランジット状態――。そういう意味における、「盲信の快楽」の快楽性。もはやそれは性愛に近いものであろうか。
朝井さんは、村田さんの奇矯な経験に対し、こう論じる。《気を抜くとすぐに巨大な虚無に呑み込まれる》。そうならないよう、《幸せめいた何かで自分自身を誤魔化し続けなければならない》。したがってこの幸せ感はむしろ、「盲信の快楽」と重なるものだと。
《現時点ではこの論理で日々をやりおおせられているものの、問題は、これでは生きている間に“幸せだ”とは実感できないというところだ。全部終わってやっと、この継ぎ接ぎの時間が幸せだったんだ、と誰かに判を押してもらうことでしかそれは幸せに成り得ない。こんな感覚に囚われている人は実は多いのではないか》
私も同意見である。こんな袋小路的な生活の継ぎ接ぎで、「私は幸せなのだ」と、結局――誰も判を押してくれなさそうなので――最後に自分自身で判を押している人は、かなり多いと思う。いうなればこれ、自動車教習所で教員にハンコを逐一もらう時に、奇妙な安堵感を覚えるのと、たぶん一緒なのだ。
「快」からくる幸せ感
朝井さんはそのほかに、もう3冊ばかり書評を記していた。
國分功一郎著『手段からの解放 シリーズ哲学講話』(新潮新書)。赤坂真理著『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)。そして石川祐希著『頂を目指して』(徳間書店)。
たしかバレーボール狂でもある朝井さんが、その道の代表者の一人である石川祐希さんの『頂を目指して』を読むというのは、誠に自然で理にかなっていてわかりやすい。
石川さん曰く、《僕はいつだってバレーボールが大好きで、バレーボールをしているだけで楽しいけれど、目標を成し遂げることができたこの喜びは、何物にも代えられないぐらい最高のものだった》。
2023年秋の、パリ五輪の出場権獲得のための予選試合で見事勝利し、そんな心境を述べたのだった。
《バレーボールを始めた小学生のころは、「日本代表になりたい」と考えたこともなく、オリンピックにも興味はなかった。ただ大好きなバレーボールを全力で楽しみ、そのときどきの、さまざまな「頂」を目標として、それを超えてきた》――。朝井さんは、石川さんの外連味のない人生観にも刮目し、自身の求める「幸福」の糸口を見出す。石川さんは将来の自分についてこんなことを述べているのだ。
《そもそも僕は今、バレーボール以外のことに興味がなく、バレーボール以外のことが考えられないから、無理に考える必要はないと思っている》
あくまでそれは石川さんの人生観、すなわち将来的な“自分像”をありのまま語っているわけだが、それでも朝井さんとしては、最も前のめり的に、石川さんのバレーボール人生と自身の作家人生とをある意味強引に同化させ、幸せ感をすり合わせたかったのだろう。前述した岡村氏の著書への関心も含め、これら4冊を読んだうえでの朝井さんが考える、あるいは述べたい「幸福」については、やや深刻さがうかがえるのだ。
とりわけ、純粋に「楽しむ」ということが「快」(カントの議論に拠っている「快」)であり、それを享受するにはどうすればいいのかの、いわば煩悶となった文章が続いていて、私は読み続けているうちにドキッとしてしまった。朝井さん曰く、《この連載を積極的に止めたいわけでもない。どうすればいいのか、と考えたところで、答えを受け取るための本を読むという行為の「快」のなさを思い出す》。もはや彼の中で、書評に対して否定的な感覚があるのではないかとさえ私は思ったのだ。

朝井さんのぼんやりとした不安
たぶん朝井さんは、心のどこかで、本物の「快」からくる、本物の「幸福」を求めたがっているのではないか。
その点、朝井さんも、また石川さんも同じ平成生まれの世代であり、阪神淡路大震災はうっすらとして記憶にすらないだろうし、凶悪な事件として世間を震撼させた、一連のオウム真理教に係る出来事などは、体感するには程遠い、幼少期の“些末”であったはずだ。
平成生まれの世代は、何から何まで答えを導き出さずにはいられない、そういう精確性を重んじた過敏な神経に育ち、いわば質実剛健の健全たる理想教育を受けてきたのだから、見えないものに恐怖を覚えるのは、已むなき事なのかもしれない。あまりに物事を剥き出しにされすぎた昭和期の様相と、その中で曖昧なる教育を受けてきた旧世代人からすれば、それはこぢんまりとした話にも思えるのだ。ここに、世代間のギャップがある。
昭和時代に生まれた人々は、誰しもが平等に「幸福」になれるとは、露ほども信じていなかっただろう。自分がそれに当てはまらないことに対して、かなりの頻度で諦念するのだった。不幸な人が、目に見えて身近なところに少なからずいたから、朝井さんのような論にはなりづらいのだ。
自分が生まれてきたこと自体を、何より「幸福」に思え――といわれたって、そう思えない人はいくらかいるだろう。別段、幸せ感を絶対的に味わわなければならないのが人間だ、ともいえないし、現実にそういう不遇に見舞われている人は、この世の中にうじゃうじゃといる。苦境と屈折と挫折のぐちゃぐちゃな社会こそが、眼の前にあるということに対し、若い世代は疎い。疎ましく思って目を背けてしまっている。
例えば障碍者の場合、障碍それ自体が不幸なのではなくて、それを差別して虫けらのように扱う人が周囲にいるとすれば、彼は自分を「不幸」だと思うかもしれない。そんな混沌としたヒト社会であるから、ひっくるめて本来的には、「不幸な地球人」といえるかもしれない。が、まず地球人の数十億人の全員が、「私は立派に幸福です」といえる世の中がいつか到来する――とは、到底思えないのだ。ヒト社会は常に七転八倒に「不幸」を内在しているからこそ、この理想論は常に不毛に近いのである。
無いから不幸なのではない。痛いから不幸なのではない。無いとバカにされるから不幸なのである。痛いだろと笑われるから不幸なのである。
ただし、ここまで書いてきて、朝井さんがその不毛の話の只中にいる、という意味で、私が述べているのでは決してない。「不幸」のセンサーが反応するか、「幸福」のセンサーが反応するかは、人それぞれなのだということをいいたい。
「不幸」を追求していくと、自分よりももっと「不幸」な人がいるのに気づいて、〈ああ、自分はまだ「幸福」だ〉と胸を撫で下ろすのが関の山ではないか、ということなのだ。これはいくら書いても、きりがないことだ。いくら他人と比べていったって、結局センサーは大なり小なりどちらにも反応するものなのである。
§
しかしながら、朝井さんの論から派生して、私なりに幸せ感を定義しようと思った時、今であればどうしてもやはり、友達が一人もいない「オフライン女子」のことを想起してしまうのだった(「トモダチってなんだろう?―オフライン女子の話」)。あれは参考例ではなく、あくまで事実なのである。
友達がいる、いないの問題について、それからこの「幸福」の定義についても併せ絡め、またあらためて書くことにするから、ここでの話は保留ということにさせていただく。ぜひ皆さんも考えてみてほしい。
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