
ヒッチコック映画狂である私が『サイコ』(“Psycho”)について書いたのは、昨年の9月だった(「映画『サイコ』とラブホの関係」)。あれは誠にクレイジーな映画であった。とはいえ、ヒッチコックの映画は、というか、ヒッチコック自身はどこか粋で、おしゃれなのである。
クレイジーな殺人者が描かれている彼の作品の中で、近年私が好んでよく観ているのが、『フレンジー』(“Frenzy”)だ。何者かが女性を強姦した後に、ネクタイで絞殺してしまう犯罪を描いた、恐ろしい映画。
この『フレンジー』は、“サスペンスの巨匠”、又は“スリラーの神様”といわれたアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)監督が、幼い頃の思い出の地であるイギリス・ロンドンに戻って撮影し、1972年の6月に公開した映画――。そして、比較的仕上がりの評判が良かった映画。
『フレンジー』を観たのは大人になってから
72年の6月というと、まさに私が生まれた年日の、その“数日後”に公開上映された映画ということになる。
生まれて間もない私が、もうヒッチコック映画狂であった――わけがない。Wikipediaによると、その数年後に、テレビの『日曜洋画劇場』(解説者は淀川長治)でこの映画は放映されたらしい。それを観た――という記憶はさすがに、ない。以後、私がヒッチコック映画狂となって、この映画を初めて観たのは、疎ましくも成人になってからである。ただし、ヒッチコックのフィルモグラフィーとしては、高校生の時にはっきりと『フレンジー』を知っていた。
もっと恐ろしく恥ずかしい告白をしてしまおうか。
私はこの映画のタイトル“フレンジー”の意味を、当初からずっと誤解していたのだ。
しかも馬鹿げたことに、最近になってようやく本来の意味に気がついたのである。実をいうと、このことが、私にとってこの映画に対する印象とその批評に、大きな影響を及ぼしていたわけであり、個人的にはきわめて重要なことだった。ともかく、ともかく…。
主演はジョン・フィンチ(Jon Finch)、バリー・フォスター(Barry Foster)、アレック・マッコーエン(Alec McCowen)、アンナ・マッセイ(Anna Massey)、バーバラ・リー=ハント(Barbara Leigh-Hunt)。

ネクタイを締める男たち
ひとたまりもなく、凝り固まった映画なのであった。『フレンジー』は――。
映画の冒頭、テムズ川で女性の全裸死体が岸に流れ着く。なんと、ネクタイで首を絞められた形跡があるのだ。幾度目か、ロンドン市内で市民を震え上がらせていた「ネクタイ殺人事件」がまた起きたのだった。
次のシーンでネクタイを締める男リチャード・ブレイニー(ジョン・フィンチ)が登場する。こいつが、ずばり犯人なのか――。
のっけから察するに、この『フレンジー』という映画を女性が観たりすれば、まあなんとも、男の“おしゃれ”なネクタイを見るのが怖くなるかもしれない。
英国ではいうに及ばず。日本においても、男子は成人を迎える頃になると、社会人の必要不可欠な作法として、「ネクタイの締め方」を覚える。たいてい、父親から教え込まれる。下着のパンツは自分の好みで選ぶべきものだが、ネクタイも同様。ただし、なんでもいいというわけにはいかないのだ。それなりに、選び方にも作法があるらしい。
残念なことに、いや、無礼なことに、私はその20歳まもない頃、「ネクタイの締め方」をちゃんと教わってこなかった。そういう紳士的な社会人生活とは無縁の成年男子だったのだ。したがって、アフタヌーンティーは好むが、ネクタイの選び方も不出来である。そうだ、今度、このブログで、「ネクタイの締め方」講座云々をやってみようか。むろんそれは、私自身があらためて学ぶためである。
この映画『フレンジー』において、紳士たりうる「ネクタイの締め方」の意味が、まるで違うのだ。ここでは、“ネクタイの絞め殺し方”なのである。男性が紳士ぶっている“おしゃれ”なネクタイで、スレンダーな女性を絞め殺してしまうなんて、酷い映画だ。普段、そうやってスーツなんかを着て、紳士的な態度で振る舞う男たちの“裏の顔”が透けて見えてくるようで、なんだかいたたまれない。
さて、ネクタイを締める男リチャード・ブレイニーは30代であろうか。それとも40代であろうか。
日頃から飲んだくれのようで、映画の始め、勤め先のパブで店の酒を飲み、店主と口論になる。そしてクビになる。かつては、英国空軍のパイロットだったらしい。その面影はすでに乏しく、激情型で円満な生活とは無縁の男。
だが、この映画を呑気に観ている、「ネクタイの締め方」すらもわからない無礼な社会人の私とは違い、リチャードだってそこそこの英国紳士なのだ。そのネクタイだけは、ちゃんと礼儀正しく締めているではないか。パブの女友達バブス・ミリガン(アンナ・マッセイ)とはかなり親しい間柄で、彼女の世話になっているのはご愛嬌。店を追い出され、金もなく、ふらふらと果物屋の友人ラスク(バリー・フォスター)のもとへ。いわばこれが、彼の不運の始まりでもあった。
リチャードよりやや年配のラスクは、飲んだくれのリチャードとは比べ物にならないくらいの、英国紳士である。仕事上の評判も良さそうだ。リチャード自身はあまり茶目っ気がなく、誰に対しても冷たい。やや、人間不信な点が感じられる。それでも彼にとって、友人ラスクは一目置く存在なのだろう。遠慮がちではあるが、ついつい頼ってしまうといった感じ。
ラスクはクビになったリチャードをおもんぱかって、仕事の工面、金の工面のことを遠回しにちらつかせる。
しかしリチャードも、そこそこ英国紳士なのであった。酔っていない今は少なくとも、自尊心があるようだ。親身な態度のラスクに、愚直にも金を貸してくれとはいえなかった。だが本当は、困っている。
ラスクはそんなリチャードを気遣って、彼にブドウを一房箱に入れて持っていかせる。そんな時に警察官がやってきて、「ネクタイ殺人事件」の手がかりになることを聞き出そうと、ラスクに職務質問する。するとリチャードは、いつの間にか姿を消すのであった。
ダメダメな男リチャード。已むを得ず、元妻だったブレンダ(バーバラ・リー=ハント)の働く事務所へと赴く。

女性嫌悪か、女性蔑視か?
先程私は、この映画は酷い映画で、紳士的な男たちの“裏の顔”が透けて見えてくるようでいたたまれない――と述べた。
リチャードが元妻のブレンダと会った。むろんそれは久しぶりの再会となるわけだが、ブレンダと離婚したのは、どうやら彼の酒癖の悪さによる暴力あるいは口論――が原因だということが、彼ら二人の話しぶりからわかってくる。しかもブレンダにとって、リチャードがそれほどワルな男だとは思っていない。
そう、むしろリチャードは、愛すべき男なのであった。ずっと愛していたかったが、いたたまれない紳士なのだ。紳士である以上に大事なのは、その人にとって「愛せる人物」であるかどうかである。男と女の関係において、これは鉄則だ。
その点、ブレンダにとってリチャードは、じゅうぶんに「愛せる人物」なのであった。しかしながら、いかんせん、酒癖が悪かった。彼らは始終、いざこざが絶えなかったらしいのだ。
あいにく私はここで、『フレンジー』という映画において、ヒッチコック監督がいかに“サスペンスの巨匠”であるか、あるいは“スリラーの神様”であるかを述べる――ことをしない。文字通り、彼はそうなのである。そしてこの映画が酷い映画であるとは、断じて思っていないし、私の大好きな映画なのである。ここは誤解しないでいただきたい。ついでに書いておくけれど、リチャードとブレンダが久しぶりに再会した後、この映画では何事が起こっていくのか、どんな展開を見せて最後にどうなるのかを知らしめようとは、思っていない。どうか気になる方は、映画自体をごゆるりと観ていただきたいのである。
この映画に出てくるのは、酒(ブランデー?)、かじられたリンゴ、締めるネクタイ(絞められたネクタイ)、複数の英国紳士、得体のしれないスープ、そしてピーナッツ、そしてジャガイモ。
ピーナッツにジャガイモ…。
いったい何のことですか、そりゃ?
と思う方は、ぜひ映画を観てほしい。観ればそのことはよくわかる。ピーナッツはちょっと発見が難しいかもしれないが…。

女性が観ると、男のネクタイが怖くなる映画だと、いった。酒癖の悪い男の登場に、英国紳士。どちらにしても、信用のおけない留意すべき点が、幾つか散らばっていると思ってしまう。この映画を最後までちゃんと観たら、だ。
男性刑事であるオックスフォード警部(アレック・マッコーエン)が、妻の作るグロテスクな料理に翻弄され、ある意味煙に巻かれる奇怪かつ滑稽な食卓シーンは、この映画の白眉であり、ヒッチコックらしいユーモアに溢れ、強姦殺人事件という重苦しい気配を相殺もしくは緩和するだけの演出的効果があった。妻の作るグロテスクな料理とは、得体のしれないスープのことである。得体のしれないものは、外の他人にあるというより、まさに内の、身内にあるという恐ろしさだ。
ともかく、少なからずここだけは、普段紳士ぶっている英国人男性に対し、女性が魔女のような振る舞いで自分の夫を翻弄するのは、観ていて痛快と思うかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。
ヒッチコックの映画――とりわけこの『フレンジー』では、犯人と間違えられてしまう飲んだくれの男に対してはきわめて同情的で、無惨に殺されて死体となってしまう女性たちに対しては、いかんせんえげつなく冷酷無比なのである。
このことからヒッチコック監督は、そもそも女性嫌いなのかと思えるし、嫌悪――憎悪といっていいほど――か、あるいは蔑視、侮蔑、侮辱などの観念に苛まれているのか、そういったことが考えられるのである。ちなみにこのことから反省して、次回作(彼の遺作)の『ファミリー・プロット』(“Family Plot”)では、全くの逆、つまり女性蔑視ではなく、男性蔑視の映画とすり替わるのだった。
§
おっと、そうだったそうだった。
私がこの映画のタイトル“フレンジー”の意味を、ずっと誤解していたこと。
カタカナで“フレンジー”と長年見ていたから、勝手な解釈で、Friendship、Friend likeといったような意味を含めて、その皮肉だと思っていたのだ。
つまり、「とっても親しい人」、「底抜けに親しい間柄」=“Extremely close relationship”に、凶悪な犯罪者(場合によってはそれは、身内の作るとっておきのスープかもしれない)が潜んでいるといった具合――。
その人はネクタイを締め、リンゴをかじり、ジャガイモにも愛されてしまう人か。
だがいうまでもなく、それは誤読からくる、「言いえて妙」であった。“フレンジー”は“Frenzy”であり、日本語の「友人」云々ではない。
大修館書店『ジーニアス英和辞典』(第6版)によると、frenzyは逆上、熱狂、とり乱す、といった意。俯瞰して騒動という意味もあり、とり乱すは狂乱といい換えてもいい。
実際、この映画の脚本の元となった原作は、アーサー・ラ・バーン(Arthur La Bern)の小説『フレンジー』で、「狂乱」と訳されている。
ついでに、freneticもジーニアスで調べると、「熱狂した」「逆上した」と出てくる。
ずっと誤解していたおかげで、かえってこの映画の本質が理解できたのだった。もしも近しい人が、犯罪に巻き込まれてしまった時、最も怪しいのは、やはりその内の近しい人――なのである。しかも親しげな人。
人はみな、近しくなればなるほど、その人との間柄において、何かしらとり乱しやすくなり、場合によっては狂乱することもあるのではないか。内輪もめ、夫婦喧嘩程度ならかろうじて修復できるが、殺人ともなると、それは縁をぶち切られた次元の違う、地獄の沙汰ということになるだろう。
くれぐれも、お気をつけて。
ところで余談。
リチャードが滞在するホテルでボーイに衣服のクリーニングを指示するシーン。あのシーンで、リチャードが逆Y字のブリーフを穿いていることに、皆さんお気づきになったであろうか。
知るか、そんなの。
と思わないでほしい。
逆Y字といえば、あのパンツのこと。私の「人新世のパンツ論」をよくお読みの方はもうおわかりだろう。JOCKEY(ジョッキー・インターナショナル社)の歴史的な「Yフロント」(Y-fronts)である。
なんとリチャードが、いやジョン・フィンチが、ジョッキーを穿いている姿をちらり見ることができるのだ。
それがどうした。
これは私の勝手な推測なのだが、もしかするとその頃、例えばアメリカの雑誌『PLAYBOY』とかそのたぐいの雑誌の広告で、ジョッキーの「Yフロント」のブリーフを穿いたジョン・フィンチが、モデルとなっているかもしれないのだ。これは全くの想像である。しかしそうなら、かなりレアな広告ということになるだろう。極私的には…。
ではまた、ヒッチコック映画批評でお会いしましょう。さようなら。
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