朝井リョウさんの書いてはいけなかったこと

 敬愛する作家・朝井リョウさんのことについて、個人的なことをあらためて振り返るならば、それは2016年の5月――つまり9年前に初めて、当ブログで彼のことを書いたのを思い出す(「未来のアンデパンダン―朝井リョウ」)。遡ってその1年前より、そしてそれ以降の現在に至るまでのおよそ10年近く、事あるごとに朝井さんの小説を読んできたという経緯がある。

 今更ながら、それは奇跡のようなものではないか。なぜなら、ずばり私が彼の小説で追い求めてきたのは、紛れもない「恋愛」に直結した男と女の若者群像――それを青春小説、あるいは青春文学といっていい――であったからだ。
 そうしていつしか朝井さんが歳を取り、若者群像ではなく、30代40代の男女の「恋愛」を書き連ねることを、読者である私が今か今かと懇願していたのだった。しかし――。

 どういう理由であの頃から若き作家・朝井リョウを推していたかというと、私自身もその「恋愛」心情の只中にあった近因が大きい。
 世の中がコロナ禍になる前であった。
 その逡巡としていたなまめかしい焔は、ちょうどコロナ禍にさしかかる直前に消滅した。ただし、昨年そして今年と、また新たな焔が燃え上がっている――ということは“密か”に申し述べておくけれども、そうしたときに必ず、彼の小説は近しく存在するのであった。私はまだ、身も心も老いていない。

 無益極まりない個人的な経緯を、やや角張って硬質的な文脈で前置きしたのは、これから取り上げる本のタイトルが、あまりにも究極的であるからに他ならない。
 伊坂幸太郎、石田衣良、白石一文、荻原浩、朝井リョウ、橋本紡、越谷オサムの共著『最後の恋 MEN’S―つまり、自分史上最高の恋。』(新潮文庫)。

水曜日の南階段はきれい

 これは当ブログ「朝井リョウさんの各各の書評ふたたび」でもふれているが、文庫本としてこの本は、2012年6月に刊行されている。収められた7人の作家さんの作品は、『小説新潮』2011年12月号(新潮社)に掲載されたものである。
 一昔前の本…。
 なぜ今ここで、この本を取り上げるのか。
 それは簡単な話。恋愛モノの内容だから。“自分史上最高の恋”と称するタイトルのコピーに惹かれ、それが“最後の恋”とも等分であることに、めっぽう関心が高まったのだった。何より、この本に朝井さんの短編小説の作品が、一編収められているという事実に、私はひどく唐突に心がえぐられた。いわば鋭い「痛み」の電流となって、ある種の「謎」を巡り、その朝井さんの「水曜日の南階段はきれい」を読んだのである。

 「水曜日の南階段はきれい」は、とある高校で、卒業していく少年少女二人の淡い“恋物語”を描いた作品。

 バンド仲間でいつもつるんでいる光太郎と隆也、そして高田は、校舎の中庭でゲリラライブを決行したのだった。センター試験が終わった1月末のこと。各々がそれぞれの大学の進学を志望していた。受験はまだ二次試験が控えてある。
 彼らは金曜日になると、同じ中庭で、熱くゲリラライブをやったりしていた。1年生の時からそうやって、自分たちで作った曲をほかの学生たちに披露していたのだ。それが3年間も続いた。
 ゲリラライブは今日が最後だった。それぞれ3人が大学に合格したら、卒業式の日にもう一度、ゲリラライブをやるつもりでいた。誰かが落ちたらライブはできない。だからそれぞれがこの時期、塾にも通い、ひたむきな心持ちで受験勉強に励んでいた。

 時に光太郎にとって、荻島夕子というクラスメイトは気になる存在だった。毎週水曜日になると、なぜか南階段を掃除している。光太郎はそれが気になっていたのだ。
 階段掃除の子。荻島夕子。優等生――。
 夕子は英語が得意だった。光太郎は南階段に通じる3階の図書室で、彼女に声をかけた。英語を教えてほしいと。夕子は小声で早口に「私でいいなら」と返事する。二人のごく有り体な関係はここから始まった。

 受験生の3年生は掃除をしなくてもよかった。でも、夕子だけは、毎週水曜日に南階段を掃除し、金曜日には窓拭きをしていた。光太郎は夕子に英語を教えてもらう代わり、夕子の掃除を手伝うのだった。
 バンドの3人は、卒業式の日にゲリラライブをやるつもりでいたが、クラスで合唱をするということに替わった。夕子がそのことをホームルームで提案したのだ。
 そうして光太郎は大学に合格し、卒業の日を迎える。

 式典が終わり、謝恩会も終わり、教室で卒業アルバムが配られ、文集が配られた。
 ホームルームが終わり、クラスメイトたちは互いに別れを惜しんで、寄せ書きをし合っていた。
 だが光太郎は、夕子がいないことに気づく。文集を交換する約束をしていたのだが…。捜しても夕子はどこにもいなかった。彼女は用があるといって、帰ってしまったらしいのだ。

 その日の金曜日は、彼女が窓を掃除する日だと思い出した。
 光太郎は、南階段の上のほうを見上げた。
 すると踊り場のある窓に、何かが立てかけてあるのが見えた。光太郎は階段を駆け上がった。そこで彼が見たものとは――。

「きれい」であることの意味とは

南階段はきれいと誰がいったのか?

 この作品が、初出の『小説新潮』2011年12月号に掲載された時のタイトルは、「水曜日の南階段は」だったらしい。そこに、形容動詞である「きれい」が無かったのだ。

 水曜日の、南階段は――いったい、何?

 そんな疑問符のつくようなタイトルであって、もともとは謎めいていたのだ。ところが、文庫本所収の段階で、ある意味突発的に「きれい」が付け加えられ、改題された。

 「南階段」が「きれい」であることが未読者に最初から報告――これはむしろ弁明――された、ということになる。そしてこの作品を読んでいった最後に、なぜその階段が「きれい」であったのか、理由がはっきりとする。
 はて、タイトルに「きれい」を付け加えたのは、いったい誰だ?
 それは作者である朝井さん本人の提言だったのか。あるいは、新潮社の編集者の改題に関する意見だったのか。

 そして何よりも謎なのは、この「きれい」(=綺麗)という形容を心に残したのは、いったいどの登場人物の主観であったのか、ということだ。
 それは、掃除をしていた夕子の主観だったのか。それとも、主格たる光太郎の雑感だったのか――。
 確かに、文末には、階段にある窓から見下ろす中庭の景色が、こう記されている。《会おうと思えばいつでも会える距離に散らばることを嘆き合った友の姿が、ここからはきれいに見える》。これは光太郎が思った言葉である。だが注意するとそれは、階段が「きれい」ということに相対する、反作用の形容であって、必ずしも光太郎自身が「南階段はきれい」と思っていたかどうかはわからないのではないか。いずれにしても、中庭にいる《友の姿》《きれい》――と、光太郎の心の内の美的感覚に置き換わっているのだった。

 どういうわけだか私は、読後に、ひどくそのようなことにこだわったのだった。
 全体として、「きれい」であることの意味とはいったい何だろうか――。
 階段がきれい。夕子の心がきれい。光太郎の心がきれい…。それとも、皆が卒業していくことの、別れ際の刹那自体が、きれいであるのか。
 その全部であるともいいきれるが、実態として本当に、学校という場は、そしてまた青年期にさしかかる少年は、少女は、「きれい」な光景としてとどまっているべきものであるのか。作者は本当に、それらが「きれい」だと信じていたのだろうか。

恋はちっとも描かれていない

 文庫本のタイトルが“最後の恋”、“自分史上最高の恋”であるのだから、存分に恋についてこだわってみたい。

 文中の「俺」=神谷光太郎が、中庭の景色が《ここからはきれいに見える》と思ったことについては、既に述べた。
 そのことからもわかるとおり、夕子が卒業の日にさらけ出した「告白」を、光太郎は感動といっていいくらいに全面的に受け止めてはいる。
 が、夕子の恋そのものを請け負ってはいない――。
 夕子は恋をしたが、光太郎自身も恋をしていたとはいいきれない。ここは、読者の解釈の違いが出るところだろう。

 私はこの作品を読んで、光太郎は同情に似た感情を熱く抱いたことは認めるが、反面――いや、かなり恋に対しては冷めていて、むしろ時間と共に消えていくであろう「他人の恋」の瑣末だ、くらいにとらえた。光太郎の本心からすれば、申し訳ないけど、「俺」の恋ではないけども…だと。
 尤も、これも恋の内であると解釈するのであれば、標題の“自分史上最高の恋”って、ちょっとあざとすぎやしないかと思ってしまうのである。朝井さんが文章体で指し示した“恋物語”が、もし“最高の恋”なら、日本人の恋って、ずいぶん淡泊だなと、思ってしまう。いや、「恋」というものを日本人が発明したのなら、それはそういうものなのかもしれないのだが。

 しかしながら、一歩引いて考えてみると、若い頃から「恋と青春は一体である」かのような先入観を抱き続けてきた私にとっては、長年、朝井リョウさんの小説で、それをどっぷりと味わってきたと思い込んでいたし、それがしっかり描かれているものだと思い込んでいた。恋と青春を、そういう若者のたぎる空気感で、すっかりすり込まれてしまった――といったら怒られるかもしれないが、どうやらそれは、恋は薄味であるといったことも含めて、私の勝手な思い違いであったことに気づいたのだった。

 一言でいいきってしまえば、朝井さんのいわゆる青春小説には、恋は描かれていない。
 人が人を推してはいる――が、恋ではない。

 むしろ、それが描かれていると思い込んできたのには理由があって、「水曜日の南階段はきれい」に登場する夕子さんのように、脇役たる人物たちが恋をするなりのことは、確かに描かれてはいる。夕子さんは光太郎が好きなのだと。例えばそのほかにも、バンド仲間の男子に、カノジョがいたりすることも描かれてはいる。しかし、それらは恋の風景にしかすぎない。しかも主格たる人物は、沈痛な面持ちで「恋をしていない」のである。恋をしていないから、全部が「きれい」なのである。

小さな恋ほど大魚を食う

 1971年にイギリスで公開された映画“Melody”は、日本では『小さな恋のメロディ』というタイトルで同年に公開され、瞬く間に大ヒット作となった。監督はワリス・フセイン(Waris Hussein)である。
 この映画を全く久しぶりに観た私は、素直に驚いた。小学生ほどの男の子と女の子が出会って恋をし、結婚を宣言するのである。
 一緒に居て生活したい。だから結婚したい――。全く筋の通った“恋物語”である。この映画についてはいずれそのうち別稿で詳しく書くつもりであるが、日本人がこの映画のタイトルを、“小さな恋”などとしたが大きな誤解を生んだに違いない。“小さな恋”などというものは、この世に無いのである。それが本当の恋であるならば、彼らが当然の権利として結婚を宣言するくらいに、良心に誓ってそれは、生きるか死ぬかの真剣勝負なのである。もし小さな恋というものがあるにしても、それは大魚を食うのである。

 話を戻す。
 朝井さんの青春小説の肝は、幼虫から蛹(サナギ)となり、やがて成虫になっていく心持ちの、エピソードであろう。通底した若者の風景であり、そこに読者は共感する。学生たちは何ものかが終わっていくことを切なく感じ、個々が散らばって離れていく。若々しいざわめきが描かれ、心の粒に痛みが伴う。全体として躍動感に満ちた文体であり、読者は青春の日々を健やかに感じ取る。

 きわめて重大なことを最後に述べて、閉じたい。
 朝井さんが書いた作品のほぼ全てといっていいのではないかと思うのだが、主格たる「私」の内面に、恋は決して表れてこない。その主格の当事者である彼、あるいは彼女は、キスもしないのである。コイもキスも、あろうことか、大魚を食うことはないのだ。水は荒れず濁らず、だから「きれい」なのだ。

§

 「私」に恋が無い――。
 率直にいって、「私」は常に恋というものを知らず。触れず。思わせぶりはするが、そのまま蛹になり、成虫になっていく小説。
 主格は恋に不干渉であって、それの不能者である。アセクシュアル(asexual。無性愛者のこと)に近い存在だ。
 つまり、朝井さん青春小説は、恋が何であるかがわからないまま、それが過ぎ去ることを示した“恋物語”であり、先述した映画『小さな恋のメロディ』とは全く別世界の、無意識的なナッシングの表明なのであった。
 読者が抱いている、あるいは経験してきたかもしれない恋というものが、本当のところ恋ではないかもしれないことは悟らせずに、彼は小説の中で、恋を描いている空気感は漂わせるものの、実情として「私」は、恋はしないのである。
 私はそのことに長年気づかなかったし、「水曜日の南階段はきれい」を読んで、初めてそのことに気づいたのだ。

 いま私の手元にある朝井さんの小説作品の単行本、文庫本は、たった2冊。『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社)と、この『最後の恋 MEN’S―つまり、自分史上最高の恋。』だけだ。朝井さんの小説は、カラッとしたものからジメッとしたものまで、潔く文体が軽みを帯びていて、まろやかで、若者の体臭の香ばしさが漂う。それは実に見事なくらいに。そうしてほとんどの読者が、それを読んでさっぱりとした鮮やかな読後感を楽しむはずである。彼は稀代のエンタメ小説作家である。

 それにつられて、つい自分自身の恋沙汰などを吐露しようものなら、それはとても危険な行為だと悟らなければならない。
 人々の本当の恋は、エンタメではない。
 私の恋も、エンタメではない。経験上、恋はぬめっとしていて、軽やかに横滑りできるものではなく、体臭も、口臭も、唾の匂いも感じ取るものである。他者への影響も、あらゆる方面でどきつい。したがって自他共に、精神を焼き尽くすほどである。
 本当の恋というものは、そういうものだ。
 恋は無かったものにされる。どういうことか。
 それは恋をしたものなら、誰でもわかる。他者の負の力がかかるのである。他者は恋を嫌がり、自分以外の恋の存在を否定してしまう。意識的に消されてしまうのである。いや、消されたほうが、いい場合も多い。

 恋人にうつされた風邪ほど、嫌みなものはない。朝井さんの小説には、その嫌みがないのだ。

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