※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月26日付「プロレスって何だろう」より)。
『ケーフェイ』(佐山聡著、NAYUTA BOOKS刊)を読み終えました。
端的に言えば、これを告白した25年前の佐山聡氏が、今日のリアルジャパンプロレス立ち上げへ至るまで、人生の中でいかに推移したかということに尽きると思います。
こんなことを今の子供達にまねされたくないのですが、正直、小学生の頃あるいは中学生の頃、私達(私とその友達)はよく“プロレスごっこ”をして遊びました(危険ですのでやめてくださいね!)。
プロレスの技は、相手がその技を「受ける」あるいは「補助」しないかぎり、成立しないものが多いのです。“プロレスごっこ”を通じて私は、そのことを経験的に知りました。則ち、プロレスはスポーツでも格闘技でもない、別の「何か」だということへの直感でした。
そして、“プロレスごっこ”をして遊んだ友達も、非常に柔軟な心でそれに対応した、感じていた、と私は思います。だから会話の中で、「あのレスラーのあのタイミングで出すあの技が好き」とか、「昨日のあのレスラーの反則は少しやりすぎだ、客が引いている」というような話題が生まれてきたのでしょう。
しかし私達は、プロレスが成熟しきった黄金期をリアルタイムで見続けた世代という幸運もあって、少なくとも日本人レスラーにおいては、それを“役者”だと見ていたのではなく、やはり彼らは素晴らしい“プロレスラー”だととらえていました。シューティングというかたちに限らず、プロレスラーは根っこの部分でそうした特訓をし、試合ではそれを一切見せず、ヘボなレスラーに対してはお灸を据えることもある、と思っていました。
ところがプロレスが近年、どちらの方向に進んでいったかということが問題です。プロレスがスポーツでも格闘技でもない、別の「何か」であることは変わりないが、プロレスラーとしての根っこの部分が有るのか無いのか疑わしいレスラーが日本人の中で増えた、と思ってしまうのは誤解なのでしょうか。
また、『ケーフェイ』の中で佐山氏が語っているように、シューティングは「強くなりたい」という意識が大事なのだ、という意味においても、プロレスラーは根っこの部分でシューター(シューティングの精神と技術を会得した選手という意味)であるべきだし、「強くなりたい」という意識、欲求は逆にプロレスラーにこそ必要だと思うのです。
プロレスラーの自我として、「強さ」に対する意識、欲求(肉欲と言ってもいい!)、こだわりがかなり薄らいだ時、あるいは無くなってしまった時、見る者はそれを見る必然が無くなり、終局的にはプロレスは滅亡するでしょう。見る側としては、何よりも「試合」を見に来ているのだから、「強さ」を求めない闘いはあり得ないと感じるし、もしそうした闘いの「試合」があるのだとすれば、それはスポーツでも格闘技でもない、また別の「何か」でもない、単なる「日常」をお金を払って垣間見ているに過ぎません。すなわちそれはプロレスではないのです。
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