※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年9月23日付「学生必携」より)。
〈1〉学校の追憶
【校舎1号館を写した最後の写真(2002年8月)】 |
卒業生である私にとっては不慮の事象であるとしか言い様のなかった、学園の倒産劇からだいぶ月日が流れた。
私は千代田工科芸術専門学校の音響芸術科を1993年に卒業している。
上野の下谷にあったその学校へは、上野駅の入谷口改札から、あの長い通路を通り抜けて、鶯谷方面へ、いくつかのモーターサイクルショップが集合した道に沿って歩いていく。やがて交差点に辿り着けば、交差点の向こうに小さな喫茶店が見える。その先の細い道を1分ほど歩いた所に、学校の通用口があった。主に学生はこの通用口を利用した。
その学校で2年間勉強したノートやテクスト、参考資料のたぐいは私の大事な宝物となっている。それはその中身の充実性とは関係のない部分においても、内面の問題として重要であった。学校がその数年後に消えて無くなることは考えもしなかったが、今となっては、その2年間の学習の痕跡こそが、私にとって学校の《母体》そのものとなっているからだ。
卒業して学校が消えるまでの数年間、上野駅へ近づく電車の窓から、建物の壁に模された巨大な時計が目印となって、その度に学生時代を追憶した。無論、校舎の窓から生徒が顔を出していたし、それが本当の意味での追憶となることなど知るよしもなかった。
あれは、卒業後7、8年が経過した頃。強い郷愁の念に駆られてわざわざ下谷に赴き、学校の食堂へ入ってみることを思いついた。さらにその「3階にある食堂脇の購買部でペラを買おう」とも企てた。ペラとは、200字詰めの原稿用紙(半ペラ)のことだ。
ところが行ってみると、その校舎はなかった。工事によって取り壊され、建物の廃棄物で埋め尽くされていた。別館の建物はまだその時残存していて、私は手持ちのカメラで写真を撮ることができた。いずれにしても生徒らの姿はどこにもなかった――。
〈2〉学生必携の発見
学校法人・千代田学園の一連の倒産劇について、私はあまり関心を抱かなかった。1990年代後期以降の少子化あるいは経営に問題があったかなどによって、1,000人を下回る劇的なほどの生徒数減少。それによって巨額の負債を抱え、不正な経理の問題も発覚した。負債総額8億7900万円。2002年に民事再生手続きを申請、2004年に再生計画完了。 この間において、在籍中の生徒らは疎開とも言える移転地にて授業を行っていたようだが、言うまでもなく、この頃の学園にはマンモス校の面影はなかったようだ。
郷愁というのは、そこに在るべきもの有すべきものが一挙に無くなって尚いっそう焦がれるものであることに気づいた。それと共に月日の経過に伴って、ありありと浮かんでいた記憶でさえも薄らいでいく不安もあった。
さて私は、あの頃、いったいどこでどのようにして授業を聴講していたか、あるいは友人達との時間をどんな場所でどんなふうに過ごしたか。
特に校舎にまつわる記憶が消え失せ、曖昧模糊となってきたことに対し、自ら腹立たしく苛立ちを覚えた。また別の意味の不穏もあった。自らの記憶が失せる中で、学園の印象があの一連の倒産劇のみに集約されていくことに対する不穏。果たして千代田学園の帰趨は、その長い学園史において、本義を鳥瞰し接眼したところによって、あの断末魔の悲劇を生み出す等閑なものであったかを、私は見極めなければならぬ。少なくとも一卒業生である私はそのような意義を今更ながら発意したかった。
あの頃、いったいどこでどのようにして授業を聴講していたか――。
インターネット上の情報を調べたものの、校舎についての記述がほとんどなく、「千代田工科芸術専門学校」としてはどれほどの規模でどういった教室があったかを知る手がかりが意外にも見つからなかった。写真という記録も皆無に近い。
ところがつい先日、机の引き出しの底から、千代田学園の学生手帳“学生必携”が現れた。私は飛び跳ねてそれを手に取った。これを保管し、机の中にしまっていたことさえ忘れていたのだ。在籍当時も携帯するのみであまり開くことのなかった学生必携を、十数年ぶりに開いてみる。
◆校訓
1.最後まで辛抱して努力せよ
2.礼儀を正しくせよ
3.常に清潔にせよ
4.他人に迷惑を掛けるな
5.積極的に行動せよ
6.常に反省して進歩向上せよ
◆教育の3本の柱
良識ある社会人となれ
立派な日本人となれ
職場の中堅指導者となれ
〈3〉学生必携の中身
学生必携は目次頁の前に以下の項を挟む。
◆学生必携および身分証明書所持注意
(本文略)
◆教育の基本方針
本校は建学の精神と教育基本法の主旨に基づき、電子・電算・芸術・デザイン写真の各産業文化に寄与する優れた技術者の養成と、良識ある社会人としての人格の陶冶と、国際社会に貢献できる広い視野をもつ若人の育成をめざし、幅広い教育を行っている。
従って、本校では学園が常に勉学の場であることを認識せしめ、集団生活を通じて秩序の維持、協調性、積極性、創意工夫、質実剛健と社会奉仕の気風を培うため、各課程に応じた次の指導を行う。
1.工業課程・芸術課程
職場において即戦力として役立つ技術・技能を身につけると共に、高度情報化社会に対応できる柔軟な思考と、指導者として活動できる能力開発と人物の養成・指導を行う。
2.デザイン写真課程
社会が要請する実際的な仕事のできるデザイナー、建築家、アニメーター、カメラマンの養成と教養ある社会人を育成指導する。
◆千代田学園のあゆみ
(本文略)
目次頁以降は以下に沿う。(いずれも本文略)
学則
学生規定
学生心得
火災予防等の心得
大規模地震警戒宣言発令時の心得
緊急時の行動心得(避難心得)
就職指導紹介規程
学生寮について
校友会について
学生規程第5条(服装)別表
学生生活ガイド
学生規定
学生心得
火災予防等の心得
大規模地震警戒宣言発令時の心得
緊急時の行動心得(避難心得)
就職指導紹介規程
学生寮について
校友会について
学生規程第5条(服装)別表
学生生活ガイド
私が欲していた情報は、学生生活ガイドの中の「1.校舎、教室と設備」「3.授業時間帯」にあった。
校舎の見取り図は見開き2枚にわたっており、それぞれ4号館と5号館、1号館と3号館と6号館となっている。
校舎を知っている者が見れば、ああ、なるほどなとわかるのだが、初めてこの見取り図を見ても、すぐには理解できないかもしれない。4号館と5号館を見てみよう。
5号館の1階に「ロビー受付」がある。JR線路側の通りから学校の玄関を入るとこのロビーに当たる。すなわちこの5号館の舎壁に大きな時計が模していたのであって、これを本館と見立ててもらってかまわない。ロビーの奥に階段とエレベーターがあり、さらには隣棟の4号館と連結されている。3階が食堂、及び学生ホール、売店(購買部)となっている。
5号館及び4号館のすぐ北にはカトリック上野教会がある。この東側に1号館があった。この1号館は主にデザイン写真課程が利用するテリトリーで、唯一、入学前の予備集会の時に利用したことがあった。13階建ての5号館と比べると一回り小さい校舎である。先の5号館及び4号館の学生通用口(三角州の東側の通りから出入り)からほんのわずか北に歩けば、1号館の玄関があった。
6号館は、カトリック上野教会と上野郵便局に挟まれた所にあった。この棟の7階と8階がレコーディングスタジオになっていたため、ここはよく出入りした。1階から3階あたりまでOA機器の教室となっており、ガラス張りの教室をよく覗いたりもした。演劇・ミュージカル科の実習生がよくたむろしていたのは、この6号館の8階7階あたりであった。
さて、3号館についてはよく知らない。出入りしたことがない。むしろ私にとっては謎の場所、校舎である。記憶が確かならば、おそらく3号館はJR線路の向こう側、すなわち上野公園16番地の寛永寺見明院のあたりにあった(5号館の教室の窓から見えたはず)。しかし小さな棟で、どの専門課程のテリトリーかわからない。推測するに、より大きなハードウェアなどを所有した工業系の専門課程で使用したのではないかと思われる。
私の学生必携に書き記してあった「時間割表」は私の自筆である。
誠に汚い字で読みづらいが、2年次の時間割表であると推測する(断言できないのは、ある定期テストの日程表メモの可能性も捨てきれないからだ)。赤い字で書いてあるのは聴講する教室の番号で、5113は5号館の11階、581は5号館の8階のことである。授業時間帯は、芸術課程では90分授業と50分授業と2種類あって、科目によって時間帯が異なっている。「スタジオ実習」は6号館のレコーディングスタジオで行われた。この実習時には必ず学校のネーム入りのジャンパーを着衣しなければならず、靴も履き替えなければならない。“スタジオ入り”に対するルールとマナーを徹底すると共に、そこに立ち入る(仕事をする)厳粛性を重んじた例であろう。
同じ芸術課程の生徒なら、見覚えのある生徒らとよく遭遇する。同じ教室で聴講することもあった。放送スタジオのある4号館は主に放送芸術科の連中がいて、5号館は音響芸術科がよく使っていた。従って、違うテリトリーの専門課程の生徒らとは競合しないし接点がない(サークル活動をしない限り)。だがそうした中で、ある年代に絞られた生徒らがこれらの校舎を行き来していると、やはり全体としての、目に見えない校風のようなものがあることを感じる。例えば上野駅に居る若者を見て、あの若者はうちの生徒だなとか、どこどこの課程だなとなんとなくわかる。同じ入谷口を歩いていれば、ほぼ確実に同じ千代田の生徒であった。誤解を恐れずに言えば、それが入谷付近の学生らによる“住民としての”日常風景であったのだ。
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