話を小学校時代に戻す。私の記憶が間違いなければ、彼はサッカー少年つまりサッカー少年団の一員であった。いま考えると、彼がサッカー好きだったというわけではなく、仲間がサッカーをしているから自分も、といった感覚でサッカーを続けていたのだと思う。
朝練の他、昼休みでは必ずサッカーをやるために仲間と校庭へ、もちろん放課後は少年団の練習である。ひっきりなしに忙しく、それが卒業間際まで続いた。一方、学業の方は真面目な秀才タイプで、言うなればスポーツもそつなくこなすオールラウンド少年であった。
何がどうしてそうなったのかは分からないが、たった一度だけ(6年間でただ一度だけ)、放課後、彼と二人で帰宅したことがあった。思い起こせばそれは、彼のある一つの企みがあったからだった。
教室に居残った私とO君は、学校を出る前に図書室に寄ろうということになった。こうしたことは極めて珍しいことだった。何故なら彼は、いつもならサッカーをやるために校庭に出掛けなければならないのだが、その日はどういうことか、彼はユニフォームを着ていなかった。サッカーをやらずにまっすぐ家へ帰るのだという。
しかしその前に図書室へ寄る――。
ある企み。そのために私を誘った、ということがなんとなく分かってきた。
誰一人としていない図書室。電灯も点けていない。彼はある本を手に取って、図書室の隅に座り込んだ。そこはたとえ、誰かが入室してきても、おそらく居ることが気づかれないであろうという秘密の一角。
彼が手に取ったのは、詳しい図説に富んだ、性教育の本であった。ちょうどその頃、学校の図書室に男子用と女子用の2冊の性教育の本を置くようになった。児童らがそれらを見て、何かしら衝撃を受けたのだが、真面目に読む者はほとんどいなかった。休み時間に多勢でそれらを開き、ふざけて女子に見せつけたりして、男女共お互いがはしゃぐための遊び道具となっていたのだから。
そうした遊び道具と化していた性の本を、O君はひっそりと、暗がりの中で深刻に、読み更けようとしていた。傍にいた私はそんなO君をからかうつもりでいたのだが、あまりにも彼の表情が深刻であったために、私は彼の傍に近寄ることができなかった。この時の情景は忘れもしない、私の中で厳粛な気持ちで受け止めざるを得ない一つの美しい《神話》となった。
時空を超え、やがて、彼の乳母車を押している光景に出くわした時、私はその《神話》を思い出した。むしろあの時のそれがその瞬間まで生き続け、具象となったのだとも思った。
O君がとある社会人交響楽団の公演で「ロンドンの小景」のトランペットを吹いた、という話を、ごく最近になって私は知った。その公演は10年ほど前のことのようだった。
私はもう一度神話を呼び起こした。
あの時の情景を。
ありふれた日常から昇華した、見事に稀有で、白銀の後光が照り返る美しいものを。
少年が世の中という外野に対し無防備かつ純真で対峙するように、純朴と純潔とが合致した小さな身体で挑むその雄姿を、これほど美しく眺めた記憶はない。彼の瞳は水晶のように透明に澄んでいて、あの本の中の《裸体》をその内輪に反射させ、じっと堪えている。青く輝いた旋毛から噤んだ唇の潤いの美。その映像はまさしく両眉をきりりと引き寄せた阿修羅像であった。彼は終始、私の存在に気づかなかった。
私は孤独というものをあの時初めて知り、生まれてくる子どもの気配を夢想した。そうであった。O君は子供に向かってトランペットを吹いたのだ。
※続きの「孤独と神話【補遺】」はこちら。
追記:Utaroの性教育スペシャル・サイト[男に異存はない。性の話。]をご覧下さい。
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