学生よ、歌え

朝日新聞3月7日付「いま 子どもたちは」
 毎年この時期になると、新聞の地方版の、高校入試出願数の表を眺めたりして、我が母校の減少傾向の定員数やその定員割れの出願者数を見比べたりして、少子化の時代潮流に時折、身勝手な憂いを感じたりしてしまう。
 そういうこととは別にして、学校を卒業するまでの間に、学生がどれほど充足感を得られたかを杞憂し、「学ぶ」ということは定員の問題ではなく、個人の「情熱」と「努力」の問題なのだ、ということを、自己の経験の反省を踏まえながら、その学生時代を思い出したりする。
 去る3月7日付の朝日新聞朝刊教育欄で、コラム「いま 子どもたちは No.870 卒業のうた4」を読んだ。府中第四中学校の合唱部の話題である。
 その合唱部の、人と人との「情熱」のうねりが伝わってくる。
 昨年まで部長を務めた野呂知里さんは、2年の時に幼馴染みの三橋洸太君を合唱部に誘った。彼は副部長となった。昨年、岩手の盛岡で催された全日本合唱コンクールの全国大会では、混声合唱の部で金賞を勝ち取った。合唱部に入ることを父親になかなか納得してもらえなかった三橋君は、この春、野呂さんと同じ高校に入り、合唱を続けるのだという。
 合唱前の、腹筋運動の光景が目に浮かぶ。地道な「努力」である。こうして私はこのコラムを読んで、一つの大きな感動を覚えるのだが、自らの中学校時代を振り返ってみると、比較することすらできないほど無形無益の思い出ばかりで、否応なく恥ずかしさが込み上げてくる。
 私の場合、それは演劇部であったのだが、部員全体の「情熱」の違いに言葉もない。ただ、合唱部の彼らと共通していると思ったのは、同じ文化部における卑下された視線だ。合唱部も演劇部も確かにコンクールという実績の場が設けられてはいるものの、スポーツの戦績や身体能力の評価とは違って、個々及び総合的な芸術性を数値で評価することができない。
 故に、音楽や演劇の芸術性が将来どんな役に立つ、と周囲は卑下する。特に十代にとってはこのあたりの重苦しい悩み、周囲からの見下しの圧迫感に対して、ぶれずにそれを続けていくことの難しさがある。くじけそうになる。
 しかしやはり、個人の「情熱」と「努力」で解決するしかないのだ、と思う。私はコラムを読んで個人的に感動を覚えたと同時に、同じような悩みで苦しんでいる学生達に、心からエールを送りたい。
 余談。卒業生が歌う「マイ・ウェイ」――というのがいい。
 学校の空気というのは、時代と地域によって異なるのだろうが、私の母校の中学校ではその時代(80年代後半)、まだまだポピュラー・ミュージックが縁遠かった。
 もちろん、生徒らは日頃歌謡曲を口ずさんだりはする。しかし学校の演題でポピュラー・ミュージックが選ばれる度量もなければ空気もなかった。そんな時、文化祭で英会話クラブの生徒らが、「WE ARE THE WORLD」を合唱した。
 それを私は体育館の客席側で聴いて、よくぞ壁を越えてくれたと思った。というより、何故自分が舞台側にいないのだという苛立ちを覚えた。
 その時の苛立ちは、私の《未来》となったのだ。

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