岡本舞子―ファッシネイション

【岡本舞子のアルバム『FASCINATION』】
 前回までで、80年代のアイドル、岡本舞子が出演していた1986年のテレビ番組「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)と彼女のシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」のB面「ファッシネイション」に関する話題を綴ってきた(当ブログ「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉」「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」参照)。その面影は、中学2年生だった私にとって、まさにそのシングル・レコードのジャケットに表された通りの、初々しい彼女の姿に凝縮されており、頭の片隅に残る“一輪の花”の記憶とも言うべきものであった。
 思い起こせばその頃、私はまだレコードとカセットテープの連携を主体にしてオーディオ・ライフを満喫していたのだが、86年あたりで念願の、据え置き型CDプレーヤーを購入している。東京・秋葉原の電気街におもむき、“決死の覚悟”で買ったのだ。それはNECのCD-610という機種で、当時の価格は59,800円であった。ちなみにこのプレーヤーは2003年まで“現役”で使用した。
 高価なCDプレーヤーは買ったものの、CD自体も高価で、なかなか買えるものではなかった。当時のCDの価格は3,200円ほどであり、よほど欲しいアーティスト以外は800円程度で買えるシングル・レコードで我慢していた時代である。だから、「ファッシネイション」がどんなにカッコイイと思っていても、岡本舞子のアルバムをCDで買おうなどという発想は、一切よぎりはしなかった。そこに山川恵津子が編曲するいくつかのハイセンスな曲が収まっていることを、中学生だった私は知る由もなかったのだ。
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【“DIGITAL REMIX”に関する定義】
 そうして今更ながら、岡本舞子のアルバム『FASCINATION』のCDを入手した。数日かけて全曲を試聴。
 それにしても、『FASCINATION』のジャケットの岡本舞子は、大人びている。きりりとした瞳、少し開いた唇の輝きの恍惚感。当時17歳くらいだった彼女の表情というものは、これほど変わるものであろうか。あの“一輪の花”としての記憶にあった印象ががらりと覆り、もはや私は彼女の印象を、スニーカーにジーンズ姿のそれとして振り返ることができなくなってしまった。
 アルバムのジャケットのせいだけではない。強いて言えば、ここに収録された冒頭の「L.A.LOVER」(松井五郎作詩、久保田利伸・羽田一郎作曲、山川恵津子編曲)、そして2曲目の「ファッシネイション」(松井五郎作詩、山川恵津子作曲・編曲)、さらには5曲目の「バラと拳銃」(松井五郎作詩、山川恵津子作曲・編曲)における、音楽的潮流のパラダイムを如実に体現したナンバーが、彼女の存在感をより高めている。音楽的潮流の言及という意味でも、真に迫る切実な課題として、当時これらの曲を聴いておくべきであった。ある種の伝統的なアイドル・タレントのプロモートに属しつつも、このアルバム・アイテムは、新しいCD(=デジタル・サウンド)メディアの時代に与していたのだ。
 再び、“DIGITAL REMIX”のこと。
 「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」で私は、デジタル・リミックスの本来的な意味について書いた。このアルバムに封入されていた歌詞のみブックレットの最終ページには、あの当時お決まりのコンパクト・ディスクに関する解説文が記されていて、そこに“DIGITAL REMIX”の定義も記されていた。これによると、私が書いた内容と少し意味が異なる。
《デジタル・リミックスとはレコーディングにはアナログ・レコーダー、ミックス・ダウンにはデジタル・レコーダーを使用したものです》
【アルバムは全11曲】
 これは、アナログ・ミキサーによってマルチ・トラック・レコーディングされたものをミキシングし、デジタル・レコーダーに記録した、という意味である。本来の解釈では、これはデジタル・マスターのことで、マスターテープがデジタルであるというだけのことだ。リミックスではない。
 アルバム『FASCINATION』は、この昔の解釈の“DIGITAL REMIX”を踏襲しているのだけれど、ロスのスタジオにて、アナログ・ミキサーによるパートの差し替えがおこなわれた可能性は、残念ながらここから窺うことができない。ブックレットには一切レコーディングに関するクレジットが表記されていないからだ。おそらく実際的には、リズムマシンなどのいくつかのパートの同期信号のやりとりにおいて、相当苦労したのではないかと思われる。ミックス・ダウンした先のデジタル・レコーダーは、もしかすると当時のSONY PCM-1610であろうか。
 岡本舞子。ファッシネイション。所有していたシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」を引っ張り出してきたあたりでは、郷愁をそそられるいたいけな偶像の産物に過ぎなかったものが、こうして96年当時のCDを持ち出してきてしまうと、決して夢が壊れる云々の話ではないにせよ、レコードという桃源郷から乖離した、具体音楽に対する言及の対象となってしまい、専門的な脳髄が働き出してしまうので、やはり後悔の念に駆られる。そのまま放っておけばよかったと。
 しかし、一つの伝説(あるいは夢)のようなものを壊し、そこから新たな課題(この場合は音楽)を模索、導き出していくのは、悪いことではなくむしろ新たな発見につながるだろう。私の中で、「ファッシネイション」が音楽的示唆のプロンプターとなればいい。そうなればそのたびに、あのきりりとした瞳が忽然と想い出されるのだ。

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