リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』の連載コラム「Berlin Calling」(筆者は音楽ライターのYuko Asanuma)が毎号興味深い。とくに先月では、2017年11月号のVol.30「クラブ・カルチャーから問う社会的問題意識」に共感を覚えた。このことについて、想起できるいくつかの事柄を個人的に思索してみたくなり、ここで敢えて取り上げてみたいと思う。
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【Yuko Asanuma氏のコラム「Berlin Calling」】 |
日本のクラブ・シーンとは違い、ベルリンのクラブ・カルチャーでは、政治的スタンスを主張するクラブやイベントが多い、というのが、Yuko Asanuma氏(@yukoasanuma)の今コラムのメッセージであった。一つの例として挙げられていたのは、Asanuma氏が参加したベルリンでのパネル・ディスカッションのこと。Cream cake主催で、テーマは「ヨーロッパ音楽における(文化の)交換と盗用」。クラブで(飲食を兼ねながら)「音楽を愉しむ」という感覚とほとんど同軸にして、参加者が各テーマをディスカッションし、意見の交流を推し進めるクラブ・シーンが、ヨーロッパでは定着している。://about blankのクラブでは、営業時間以外で“The Amplified Kitchen”というトーク・イベントが催され、人権問題やサブ・カルチャー的ワークショップが企画されたりしているという。
日本のクラブ・シーンにおいては、まだまだ音楽的裾野の純度が高く、そこから政治的な主張やサブ・カルチャーへの議論の場へと多岐には広がっていない。個別のパネル・ディスカッションやサブ・カルチャー的ワークショップのイベントは都市に無数に存在しても、アーティストらがそれらを束ねて主催しているシーンは、ヨーロッパと比べてまだ程遠いのではないだろうか。だがそれも、日本の都市圏において同等となるのは時間の問題であるように思われるし、SNSの飛躍的な利用頻度が、「市民力」を以前よりも高めているように感じられる。
Asanuma氏がコラムの冒頭で何気なく述べているように、「ドイツ人は議論が好き」ということから考えると、一般的に日本人は、仲間内ではよく喋るが、それ以外の他者とは議論が不得意、人見知りが激しい、ということは言えるかも知れない。
私の住む片田舎の街を例に挙げると、確かにこんな辺鄙な街にも、ぽつりぽつりとクラブが存在して頼もしい。が、実際的には、都市圏のようにいくつものクラブを媒体としたTribesの若者は、数少ない。ここでの若い女の子達は、そそくさとクラブの入口へ向かうことができずに、躊躇しながら恐る恐る周囲の様子を窺いながら、及び腰でチケットを購入している。片田舎の街では、若い彼らでさえそういう状態なのだから、全体の市民レベルとしては、音楽を共有しかつ裾野を広げてパネル・ディスカッションやワークショップなどに参加する勇気は、ほとんどない――。
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【『Sound & Recording Magazine』11月号】 |
とてつもなく、個人の教養主義の素地とそれを下支えする街のカルチャー・センターとのネットワークが「希薄、縁遠い」という現状が、日本の地方の地域にはある。そういう意味で、クラブ・カルチャーからサブ・カルチャーを後押しするベルリンのような都市の先進性は、日本の地方にまだまだ根付くどころの話ではない。
しかし思うに、例えば京都の町のコミュニティの在り方(町のあちこちに点在する喫茶スペースやアート・ギャラリーで、個別のイベントのフライヤーを配布していたりとかの情報共有・発信力)を想像したりすると、決して地方の地域でできない話ではなく、地域によってコミュニティ力に格差(あるいはコミュニティそのものの形態や手段が違うこと)があるにすぎない。
人が集まりやすい場所や施設を情報共有の場として有効活用できれば、ベルリンや京都のような高いコミュニティ力が実現するだろう。音楽を通じて盛んにサブ・カルチャーが語られるようになる近未来の予兆は、どこかしこでも、はらんでいるはずである。
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