創作短編「蜻蛉」

 道子と康彦が、鎌倉の鶴岡八幡宮へ訪れたのは、この日で2度目であった。尤も夏の暑い日に訪れるのはこれが初めてで、彼らにとって夏の鎌倉は、真新しい澄んだ色彩の連続であり、心身の休息には相応しいと思われた。
 康彦は、道子の手をしっかりと握りしめ、白旗神社へと歩いた。若宮の前を通って、柳原池に架かる橋を渡ると、青々とした雑草の中に一匹の赤い蜻蛉が、ひらひらと羽をばたつかせているのに気づいた。蜻蛉は雑草の寝床に横たわり、もがき苦しんでいた。蜻蛉の眼はキリッと康彦の目を見つめているようであった。道子も蜻蛉を発見した。

「あら、蜻蛉だわ」
「ああ。かなり苦しんでいるね」

 そういうと同時に、康彦の手は道子の手から離れ、クリクリとうごめいている蜻蛉の目の前に腰を降ろした。すると汗ばんでいた彼の手は、一瞬冷気が襲い、すっとした快感を味わった。彼はしげしげと蜻蛉の様態を眺めすかし、やがて死に絶えることを感じとった。
「もうじき、死ぬんだね。きっと」
 康彦はそういい放ち、後ろに立っている道子の方を振り向いた。彼女はいつもと変わらぬ表情で、康彦の言葉に頷いた。それは笑顔でも悲しい顔ともいえなかった。
 康彦は、内心ショックを受けた。そして、さっき味わった冷気の快感を少しばかり後悔した。あの道子の味気ない顔。あの顔は一体なんだろう。道子はその時確かに、康彦の手が自身の手から離れた瞬間、全てが完結したことを悟ったのだった。

 それは、後味の悪い末路を意味していた。今までの二人の共感を支えていたものは、いずれも彼女の憂悶からくるもので、その神通力は既に無力となり果て、彼をコントロールすることができなくなっていた。末路が今、ようやく訪れたことを道子は直感したのである。
 彼はというと、偶然出会った一匹のもがき苦しむ蜻蛉に、心を動かされていた。それがたとえ、ほんの一瞬のことにしても、底知れぬ悲しみと憂欝を、道子の表情から読みとってしまったのである。おそらく彼女にとっては、それが二人の関係の無秩序化を意味することは明らかであり、恋愛の終焉以外、何物でもないと解釈した。

 康彦は、意を決して道子の手を握りしめ、黙々と神社へ歩きだした。

 するとやはり、その手の感触は、さっきまでの彼女の感触とは違っていた。まるで恐怖に怯える子犬のように震えていたのだった。二人は二度と、蜻蛉の姿を思い返すことはなかった。
 だが、この場の偶然とあの一瞬の舞台は、蜻蛉の演技によってすべてが動かされていた。蜻蛉は、康彦と道子がここに訪れることを知っていた。そしてこの場の状態が、蜻蛉のために静寂と化した。一世一代の演技を試みた蜻蛉は、二人が神社の境内へ歩いていくのを静かに見つめ、自分の役目が終わったことを感じ、二人の行末を見守った。そして彼らが神社の境内を通過したことを確認し、蜻蛉はその場を去った。

 道子と康彦は、じっと神社の影とあたりの情景を心に焼き付けようとした。だが彼らが見ているものは、実はそれではなく、遥か彼方の景色なのだった。彼らは心と身体を切り離し、思いを一つに集中した。この小さな神社に訪れる者はおらず、ここはまるで時間の停止した空間のようだった。この静寂、いやこの虚無こそ、永年二人が待ち漕がれていた幸福の糸口であり、全てを許す尊大な心を呼び戻す透明な密空間だった。
 道子は自分の着ている服の野暮ったさや儚さを思い、どうにもたまらない気持ちになり、大粒の涙をこぼした。もはや彼女は、目を開けることができないでいた。彼女の涙するか細い声は、林の中をゆっくりと漂遊し、やがてどこかの小鳥が相槌を打ち始めた。
 康彦は、彼女の泣く声を後ろにして、怠惰の念を楽しんでいた。彼もまた小鳥と同じように、落葉を足で踏みながら、道子への幽かな相槌を打った。それはまるで仄かな鎮魂歌を聞いているようだった。
 二人にとってこの質素な合奏は、大音響に轟く交響曲と少しも違いはなかった。林の中を響かせる不確定な不協和音は、逆に魂の叫びとなり、二人の身体の骨々に共鳴した。それを二人は、長い間唯美に堪能した。

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