※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年「ラ・ギャラクティカのこと」より)。
私はプロレスが好きだった。今でこそ見る機会がなくなったが、相当プロレスにのめり込んでいた時代があった。プロレスが格闘技と合わせ鏡になる以前のプロレス――いわゆる「昭和のプロレス」――が、私は好きだ。
すなわち、女子プロレスである。神取忍の時代でもなければ、クラッシュギャルズ全盛時代やビューティペアの時代でもない。小柄な白覆面レスラー「ラ・ギャラクティカ」のことである。私は不意に、ラ・ギャラクティカのことを思い出した。おそらく彼女は、南米人ではなかったか。
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【WWWA世界王者“ラ・ギャラクティカ”(全女オフィシャルカードより)】 |
日本におけるラ・ギャラクティカの最大のライバルといえば、ジャガー横田だろう。
ジャガー横田は、昭和56年2月25日、王者・ジャッキー佐藤を破り、第29代WWWA世界選手権者となる。その後、ジャガー横田は、ペギー・リー・レザー、ダイアン・ホフマン、ジュディー・マーチン、モンスター・リッパー、デビル雅美らの挑戦を退ける。さらに、ウェンディー・リヒーター、マスクド・ユウを破り、通算7度のWWWA世界王座防衛に成功する。
昭和58年5月7日、神奈川・川崎体育館にて、ジャガー横田は、WWWA世界選手権並びに、髪切り・覆面剥ぎデスマッチ(女子では初)として、ラ・ギャラクティカ戦を迎える。ジャガーが負ければその場で髪を切り、ギャラクティカが負ければ、覆面を脱がなければならないのだ。
しかしジャガーは、強敵ギャラクティカに破れる。王座を失い、髪も切られる。ギャラクティカは、白覆面を流血の赤に染め上げ、ジャガーとの死闘を見事なまでに演じた。
【メキシコ人世界王者ラ・ギャラクティカの最大のライバルはジャガー横田】 |
翌月には、再びジャガーとギャラクティカが相対峙。そしてジャガーが王座に返り咲くわけだが、この後、女子プロレスの時代は、若手だったクラッシュギャルズ(長与千種とライオネス飛鳥)が台頭し、極悪同盟・ダンプ松本らとの日本人対決が主流となっていく。いわゆる「クラッシュ・ブーム」だ。
つまり、「日本人対外国人」というイデオロギーの構図は、ジャガー横田売り出しの千両役者となった、ラ・ギャラクティカあたりの試合が晩年期となり、以後、外人レスラーが日本国内において、大きな選手権試合に名を連ねる機会は激減する。出稼ぎ外国人女子レスラーは、大きな檜舞台を失ったことになる。
何故私は、今もあの真っ赤に染めた覆面と、ギャラクティカという名を思い出すのか。
ヒールとして闘い、ニヒルな覆面の下で、彼女は日本にどんな思いを抱きつつ、やって来たのだろう。
それは謳歌でもあり、哀歌でもあったはずだ。そこに、出稼ぎ外国人女性のバイタリティと哀しみ、その切ない生き様を、私は唄声として聴いたのかもしれなかった。
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