※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月28日付「『大阪』とリヒテルの謎にまつわる話」より)。
《レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役でスヴァトスラフ・リヒテルが初来日している。1973年になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した》
高校修学旅行の記憶の中に、「大阪の新世界の界隈を歩いた」――があります。が、修学旅行は姫路・金比羅・萩・山口・広島に行って、大阪を訪れた公式記録はありません。
――休憩のためにバスを降りる際、ここは賑やかなところだから十分気をつけるように…と引率の教師に含み笑いをされて、さて何のことかと思ったのですが、要するに風俗店には入るな、という意味だったようで、新世界商店街での休憩時間はものの数十分で終わった――という記憶。
その記憶自体が非常に曖昧なうえ、卒業アルバムにある修学旅行旅程表には、東京から新幹線で姫路へ、姫路から姫路城へはバスの運行路線となっており、その記憶とはまったく食い違います。
自分の記憶が不正確で、公式の旅程表が正確である、という可能性が高いにしても、どうも自分の記憶を捨てきれません。仮に、何らかの理由で旅程計画が急遽変更され、実は新幹線を大阪で降り、大阪からバスで姫路城へ向かったとも考えられ、卒業アルバムには当初の計画の旅程表がそのまま掲載された、という可能性もないわけではありません。
ともかく、私にとって濃厚すぎる大阪への連想・連関は、この奇妙な記憶と“大阪万博”への憧憬以外、他にないのです。
閑話休題。
ムラヴィンスキーをWikipediaで調べると、注目すべき文面がありました。
《レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役でスヴァトスラフ・リヒテルが初来日している。1973年になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した》
先日紹介した、大阪万博開催に伴ってのフェスティバルホールでの催し物の中に、レニングラードフィルの演奏会があります。公式ガイドでは「エフゲニ・ムラビンスキー、アルビド・ヤンソンス指揮」と書いてありましたが、Wikiの文面が正しければ、この予定は覆ったことになるのでしょうか。また、1970年のリヒテル初来日は、予定にあった9月の演奏会のことではなく、7月のことになるのでしょうか。
ネット上における“大阪万博”に最も詳しいサイト[EXPO’70]でもレニングラードフィルの演目の細部については触れられておらず、この時点では謎のままです。
さらにネットを調べていけば、案外簡単に事実が明らかになるかと思いますが、敢えて私はこれ以上調べるのをやめておきます。
こうして考えてみると、必ずしも史実として残る公式記録が正しいとは限らず、場合によっては記憶の残り滓のようなものの方が実は正確で真実であったりもする。
一人のピアニストが、初めて訪れる東洋の地で、何を最初に見聞し、感じたか。それはひ弱なヒグラシの鳴き声ではなく、もしかするとエネルギッシュなクマゼミであったかも知れない。その方がなんとなくリヒテルらしいとも思えるのです。
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