※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月13日付「第五福竜丸展示館」より)。
【第五福竜丸展示館】 |
真夏の8月下旬、都立夢の島公園の広大な敷地を訪れて、若者達が活発に運動やスポーツを楽しんでいる姿が目に止まりました。長閑な午後の風景。そんな公園の一角、マリーナに面したところに「第五福竜丸展示館」があります。
屋根の頂点の鋭角が際立つ建物。その明晰な形からは、ある種の圧迫感や不穏を感じました。自然と調和しづらい三角形という造形。
何故これはこういう建築なのか。
そもそも「夢の島」というメルヘンチックな言葉の背後にある、人間の欲望と脆弱さ。具象化されたそれらの「後始末」という問題。言い換えれば、それらは自然と調和しづらいものであり、不均衡である。私はそれを人類の《負の神話》と解釈します。三角形という造形は、目に映るものとして長閑な風景の中で異端な存在であるけれども、夢の島も第五福竜丸も、《負の神話》と連なった同じ深刻さを、底辺に抱え込んでいるのです。
先月公開された映画『一枚のハガキ』の監督である新藤兼人さんの1959年作品『第五福竜丸』では、米国によるビキニ環礁での水爆実験で被爆した第五福竜丸乗組員らのキャラクターや行動が幾分チャーミングに描かれており、必ずしもこれは暗い映画ではありません。全体の悲劇と乗組員らの快活さがコントラストを強調したかたちとなって、重いテーマの核心へ向かってドラマが進行します。
【傷んだ船の側面】 |
乗組員・久保山愛吉さんの「死」というこのドラマは、映画的な不文律と格調により、何の淀みもなくむしろ忠実なほど“ドラマチック”なのですが、驚くべきことに、これが商業映画のフィクションではまったくなく、1954年の日本国の、焼津の漁民に襲いかかった現実の悲劇であるということを、観る者に対し鋭く冷たい風となって吹き付けます。そしてそれは、広島と長崎の原爆からまもない9年後の悲劇であるということも忘れてはなりません。
乗組員らが“それ”を向けられ、ひょうきんなまでに嫌がるしぐさが、もしかするとこの映画の最大のハイライトではないでしょうか。
【ガイガー計数管の展示】 |
“それ”の(映画のプロップではない)“実物”が、展示館に展示してありました。
「ガイガー計数管」です。
これが発するあの奇妙な《音》は、あまりにもよく知られていると思います。今年になってまた多くの人たちが“それ”を向けられた、という現実が、しつこく日本にある、ということはとても悲しいことであり、同時にそれが自らの過ちによるものだというどうしようもない、過去からの「生かされなかった反省」を思わざるを得ないのです。
【木造の第五福竜丸】 |
展示館を出た後、喉が渇いて自販機のドリンクを飲み干しました。公園の緑の景色に囲まれ、そこで蠢く若者達の明るい笑顔こそが、世の中で最も価値あるものだと、私は確かに信じます。
――誠に嘆かわしい余白。先日のニュースによれば、水爆実験のあったビキニ環礁では依然として放射線の線量が高く、立ち入り禁止となっているようです。
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