架構の空間

 先日、何気なく手に取った『學鐙』(2012年春号・丸善出版)の中の、隈研吾著「不便な建築」を読んだ。“便利な機械”はあるが“便利な建築”というものはない、という書き出しで始まって、建築家ル・コルビュジエの“住宅は住むための機械である”という名フレーズに関連し、彼が建築したサヴォア邸の実際的な不便さについて触れていた。
 隈氏は、《便利さとは、一種の自己中心主義、人間中心主義にもとづく判断基準なのである。「便利な機械」というのは人間中心主義にもとづいて、人間に奉仕する一種の奴隷として作られたものである》と定義している。また逆に建築においては、そこで人間が従属し、奉仕している、のだという。

 コルビュジエの名作中の名作であるサヴォア邸の白いsquareの美しさは、誰が見ても美しいと思える。だが人が住むための建築としては、見た目で美しい、だけでは済まされない。

 コルビュジエは先の名フレーズによって20世紀を一歩前に踏み出したが、人が家に住むということはどういうことか、建築とは何か、の山ほどの課題が同時に噴出した。そしてあらゆる建築家がそれを思考熟慮した。白いsquareに魅了されつつも課題を乗り越え、時代が過ぎ、隈氏の言う“便利な建築”というものはない、という客観に至った21世紀の初頭を我々は過ごしている。

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 何故私が隈氏の「不便な建築」をここで取り上げたかというと、この21世紀の初頭、DAW(Digital Audio Workstation)という《魔法の箱》をついに手にしてしまった、音楽を作る側の人間の心の、悩みと不穏と優雅さとを暗示しているかのように思えたからだ。

 DAWは“便利な機械”であるか。

 かつての時代のレコーディングスタジオの有り様は、ほとんどすべてと言っていいほどDAWの箱の中に収まってしまった。だからといって、音楽が(誰でも)簡単に作れると言えるのか、という問題である。

 自宅スタジオという名目でDAWを中枢に据え置き、その周囲に付随されるべき機材を含めたシステム全体は、まさに架構の空間としての建築だ。音楽制作におけるこれらの機械は、機械でありながらも建築部位であり、身体的な部位でもある。これらが使用者にとって心地良い部位でなければ、単なる不快な部位となり、架構の空間そのものが不快と感じられてしまう。
 私が設置した自宅スタジオの中の機材等は、機材そのものはまったく違うが、記憶の中にある“消えたスタジオ”のシステムを音楽的音響的に半ば再現しうるものとなっている。その“消えたスタジオ”とは、私が20代の頃に学んだ専門学校の実習用スタジオのことだ。

 このことに気づいた時、自分自身が取り組んでいる音楽という芸術分野は、決して新しいとか便利とか、巧いとか美しいとか、そういうものとは無縁の、得体の知れない塊であることにも気づかされた。そうした架構の空間から生み出された音楽とは、自分自身の過去の経験と記憶と、感情と、後は自分が心地良いと思える音の集合体であるとしか考えられない。
 そして音を作り出していくものは力であり、情念であり、自身の中の欠落したものに過ぎない。
 音楽を生み出す架構の空間に存在するDAWは、一つの道具に過ぎない故、単なる“便利な機械”ではない、人の心を写し記録する音叉であってもらいたい。

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