【大正13年発行の丸善小冊子『學鐙』】 |
数年前、ある若年の知り合いが仕事の昼休みに読書をする姿を、毎日目撃する機会があった。その人が中座することなく真剣に本を睨んでいる様は、もうまったく会話の余地がないほど緊張感に包まれていた。したがってこちらも口を挟むことなく近づかないでいたのだが、何ヶ月間かしばらくそうした様を眺めていて、私はふと疑問を抱いた。
その知り合いは毎日別の本を持ってきている。それも短編小説ではなく、すべて長編小説だ。普通、そうした長編小説を一辺に読み終えることはなく、毎日少しずつ読み進めていくものだが、その知り合いは昨日とは別の小説を持ってきて読み、明日になるとまた別の小説になるのである。この読み方は、はて、と私は考え込んでしまった。
よほど読むペースが速いのか、たった1日で長編小説を読み終えてしまい、次の日には別の長編小説に取り掛かっているといった感じで、なんとも不自然に思えてならなかった。私の観察眼では、その小一時間の昼休みに読み進められたページ数を1時間当たりの平均ページ数とし、1日に15時間読んだとして掛け算しても、その本を読み終えることは不可能なのだ。であるならば、何故にその知り合いは、毎日別の本を持ってくるのか。
つまり、その人は小説を読破するのが目的ではなく、別の意味合いでただ活字を追っているだけであり、移ろう気分によって本を替えているに過ぎない、と結論するしかなかった。読書の場合、どう考えても映画鑑賞のようにはいかない。
しかし、あながち、間違った読み方だと言い切れないし、私自身もただ「活字を追う」だけの読書をすることがある。ただ、あの真剣な眼差しは、どう見ても小説の中に入り込んでいるようにしか見えなかったのだが、人それぞれ、読書の仕方というかその質と量も違うのである。
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【「ジュピター鉛筆削」の広告】 |
閑話休題。最近、A3サイズの五線紙を買ってきて、ちょっとした音楽のフレーズをメモするために、鉛筆で汚らしい音符を書き加えていく、といった事をしている。長らく筆記用具として鉛筆など使わなかったから、HBとか2Bとかの鉛筆の硬さの種類だとかに新鮮味を覚えつつ、思いがけず“鉛筆削り”が無いことに気づいたりして、唖然としながらも、音符を手書きするのはやはり他のペンより鉛筆(三菱鉛筆)が良い、ということに精神的な心地良さを感じている。
そんな時、偶然手にした丸善の小冊子――それも大正13年発行の古い――『學鐙』(GAKUTO・がくとう)の中の丸善広告を見て、度肝を抜かれた。「独逸製 ジユピター鉛筆削」。
《従来の鉛筆削りの多くは製図のような鉛筆の尖端を特に正しく鋭くする必要のある場合不完全の憾みがありましたが、ジユピターは此點に重きを置いて考案されてありますから製図家用として上乗無類です》
これが本当に鉛筆削りであろうかと眼を疑ってしまうほど、図体が大きくて黒塗りで無駄に仰々しい、時代性のある高級感に満ちている。むしろ文房具としては芸術的とも思える。しかも構造・形状が円筒式蓄音機とよく似ている。
たかが鉛筆を削るのに、これほどとは、と感慨深い。当時舶来の輸入品を扱っていた丸善ならでは、とも思う。明治期に創業した丸善の、国内における西洋文化流入の役割を果たした功績は、著しいものがあったはずだ。
アンティーク好きの方で、実際にドイツの骨董品売り場で同型に近いジュピター鉛筆削を購入したと、インターネット上のブログで現物画像を見たのだが、やはり品がある。当時の技術的精度は、どの程度のものであったのだろうか。いずれにしても、実用かどうかは別として、アンティークではたまらない《無類》であろう。
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