『洋酒天国』とユーゴスラビア

【『洋酒天国』第45号】
 寒い冬の午後。列車の窓からふと景色を眺めていると、“懐かしい”小学校の校舎とその校庭が見えた。
 それは私が卒業した母校の小学校ではなく、小学校高学年の頃、サッカーの練習試合のために自転車遠征で訪れたことのある小学校――だった。母校を卒業して以来、電車の窓からその景色が見えるたびに、私はそれを思い出すことがあった。サッカーが不得意であった私にとっては、苦々しさが鏤められた思い出だ――。
 ところがそれは、大きな勘違いだと気づいた。訪れた学校はまったく別の学校であった。
 そもそもあの時、児童らが自転車を走らせて遠征したのは、河川敷の近くの小学校であった。電車の窓からは、河川敷など見えないのだ。まったく場所が違う。愚かしくも私は、長年あの学校がそうだと思い込んでいたのである。
 しかしながら、そういう勘違いをし続けていなければ、あのサッカーの遠征を、苦々しくもありながらあの懐かしい小さな記憶を、車窓から思い出すことはなかっただろうし、記憶そのものが忘れ去られていたかも知れない。
 そんな苦手なサッカーをやっていた頃、周囲の子供らの大多数が持っていたエナメル質のスポーツ・バッグがadidasであり、それとあながち関係が浅くない“ユーゴスラビア”と聞いて、今、それを思い出している。
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【カフェ、料理店、酒場…】
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第45号(昭和35年4月刊)のフォト・ジャーナルに、阿部展也著「ユーゴスラビヤの旅」というのがあって、抽象的な作品を遺した画家・阿部氏の経歴などをいろいろ調べたりしている。
 ちなみに先日私が訪れた東京新宿区下落合は、若い頃の阿部氏が美術研究会なるものを催して仲間と交流した、某アトリエが在った土地のようで、偶然にせよ不思議な因縁を感じる。阿部氏の「ユーゴスラビヤの旅」を読んでみても、そんなことはまったく分からなかったのだが…。
 その「ユーゴスラビヤの旅」は、文字通り彼のユーゴスラビアの旅の話である。酒の話はしばし出てくる。
 阿部氏は、1957年以来、国際造形芸術連盟総会(IAPA)を通じてユーゴ各地をまわった。各地で撮影された写真が興味深い。夜のカフェ、セルビアの料理店、酒場、ドブロフニックの中世僧院の柱頭彫刻、「グースラ」という楽器、そして酒器。
《まずユーゴの正式な呼び名を書けば、ユーゴスラビヤ人民共和国連邦ということになる》
(『洋酒天国』第45号「ユーゴスラビヤの旅」より引用)
 阿部氏はそう書いた後、スロベニア、クロアチア、ボスナヘルツエゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアと国名を並べて、各六共和国によって成立、と一段落を結ぶ。尚、丁寧にそれぞれの首都まで詳しく説明してくれている。昭和35年あたりの日本人には、ユーゴは馴染みが薄かったせいなのか。
【柱頭彫刻、楽器グースラ、デキャンタ…】
 ユーゴスラビア連邦人民共和国は1963年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、80年代以降になると政治体制が大きく揺らいだ。この間、つまり1971年にローマで亡くなった阿部氏は、この後のユーゴの末路を知るよしもない。
 90年代以降のユーゴは、各共和国どうしの紛争が勃発、独立を伴って連邦崩壊の一途を辿り、2006年にはすべての共和国が独立した形となった。皮肉にもそういう歴史の国として、旧ユーゴスラビアはすっかり日本人に知られるようになった。
 そういえば『洋酒天国』第45号の表紙は、ユーゴの墓石のレリーフだとかで、“ボグ・ミル”あるいは“ステチヤック”と呼ばれているのだという。
 阿部氏の言葉を借りると、そのレリーフが案じているのは、「バルカン農民の素朴な人柄と反骨」である。自由なる自己の感情や創造的な要求を望んだ、バルカン中部の人々の世界観や人生観が、どうやらこの地方の様々な美術から感じられるのだと、彼は芸術家らしく文章をまとめている。
 私にとって気になったのは、写真にある美しいユーゴの楽器、「グースラ」である。
 世界の民族楽器に詳しい書籍、東京藝術大学音楽学部小泉文夫記念資料室『所蔵楽器目録』の中で、その「グースラ」を見つけた。弦鳴楽器に属する「グスレ」(gusle)だ。
 本体は木製で山羊の皮を張ったもの。弦は馬毛など。全長がだいたい80センチ弱。腰掛けて膝の上に立てたり、膝の間に挟んで弓奏するらしい。
 目録には、ブルガリア由来の弦鳴楽器も載っていてそれが「グスレ」とよく似ている。ほとんど同じである。時代考証はさておき、楽器としてはほぼ同類と見ていい。
 「グースラ」は、黒海に面して横たわるトルコあたりからの、中東文化との《交差》と《混合》が一つの楽器の結晶として熟成されており、まるで酒の伝来のようで実に興味深い。

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