広辞苑とドブの話

【広辞苑の「どぶ」はまさに本の溝にある】
 当ブログ[Utaro Notes]の原稿を書く際も、言葉の意味を調べるためにあの重い広辞苑をたまに開くことがある。広辞苑は国語辞典の類で最も信頼のおける本の一つである。
 先日届いたばかりの岩波書店のPR誌『図書』6月号は、特集【広辞苑刊行60年】となっていた。ほぉ、60年になるのかという感心が一つ。そしてその号で著名な方々の広辞苑にまつわるエッセイを読むことができ、改めてその評判と長い歴史に感服してしまった。
 この特集の中で、芸人・作家の又吉直樹さんが広辞苑を使って占いをした話が出ていて面白かった。
 又吉さんは私と同じ6月生まれである。広辞苑を開き、選ばれた単語でその人を占うという、暇つぶしにはもってこいの遊びは、なかなかユニークな発想であり6月生まれの双子座人がいかにも考えつきそうだ。しかも実践的。ちなみに私はしばらくこの人を、マタキチさんと呼んでいた。
 広辞苑の話に戻す。アメリカ出身の日本文化研究家(酒好きで有名な)マイク・モラスキー氏のエッセイも興味深く、広辞苑はさすがに外国人にとって敷居が高いようで、単語のアクセントの表記や語源がない、など苦労したらしく、なるほどと思った。
 まず岩波書店という啓蒙主義の敷居の高さがあり、なおかつ広辞苑のあの分厚さ、値段の高さと、確かに広辞苑は高校生あたりが気軽に買って読める代物ではない。何がどうなって広辞苑が好きになったかはそれぞれだと思うが、とにかく高貴でキザっぽく、故に憧れてしまう部類の国語辞典という点では、誰しも感じるところは一緒で、広辞苑にまつわる話は老若男女問わず枚挙に暇がない。
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 ここからは私自身の広辞苑話。
 振り返れば最近、『広辞苑』(第六版)を開いて調べた単語は、「蒙古斑」であった。
 モウコハン。
 これはもう失敗作で世に出さないからここで書いてしまうけれども、自身の作曲の過程で“蒙古斑の男”というタイトルの歌を作ろうとしたのが広辞苑を開いた動機だ。
 モウコハンというのは、子供の尻にできる青いシミのことだが、いわゆる“半人前の男”という意味合いの、コミカルな歌を作ろうと思ったのである。が、広辞苑で「蒙古斑」を調べたら、思いがけず食指が動かなくなってしまった。
《【蒙古斑】
小児の臀部・腰部・背部・肩胛部などの皮膚にある青色の斑紋。皮膚真皮層中にメラニン色素細胞が存在するためで、年齢が進むと消失する。モンゴロイドに出現率が高く、日本人の生後一年以内乳児での斑紋は九九・五パーセントに達するが、白色および黒色人種では希。小児斑。児斑。》
(『広辞苑』第六版より引用)
 学術的すぎる。九九・五パーセントなんていう数字は余計だ。なんとなくこれを読むと、“半人前”とか“未成熟な人”のイメージが遠のき、蒙古斑の青いシミは単なるメラニン色素の問題だったのかと、なんだか味気なくて意気消沈してしまう。
 むしろ私が抱いていたイメージというのは、そこにコミカルさが感じられなければならないのだが、タイトルとして使えば個人的な誤解と偏見を帯びた誤用のようにも思えるし、ともかく広辞苑で創作意欲がいっぺんに削がれてしまったのは確かであり、この曲は結局ボツにしたのだった。
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 別の語の話に変わる――。
 先述したマイク・モラスキー氏の、広辞苑での語源に関する指摘に関連してもいるのだが、ある時たまたま、「どぶ(溝)」という語で私は思索をめぐることがあった。
 子供の頃、住む町の至る所にどぶがあった。大人達がどぶと呼んでいる場所は、ほとんど汚い泥水の詰まった溝ばかりで、悪臭が立ちこめる溝のことをそう呼んでいた。例えば実質的には灌漑用水路なのに、濁って汚い水が流れる用水路をどぶ川とも呼んだ。よくそういうどぶ川でオタマジャクシやタニシをすくって遊んだりした。
 『広辞苑』で「どぶ」を調べると、語源については触れられておらず、
《下水などを流すみぞ。渓流のよどみ。》
 としか記されていない。ただし、「溝川」を調べると、
《どぶのような汚水の流れる小さな川。》
 とある。私の記憶にあるどぶは、印象としてそれに輪をかけてひどい汚水であったので、どうも語釈に感覚の開きがあるように思えてならないのだ。
 実は中村明著『日本語 語感の辞典』(岩波書店)で「どぶ」を調べると、そのあたりのことが解説されていて溜飲を下げることができた。
 つまりどちらかというと『広辞苑』は、できるだけ広義をとらえて、語感はもとより特殊な活用の言及は避ける傾向があるので、極端に言えば理系の論文には相応しいが語釈をとらえるのに文芸には不向きな感じがする。
 私は「どぶ」と聞いただけであの頃のどぶのいやな臭いすらも甦ってくるのだが、広辞苑を読むだけでは、そこまでのニュアンスは感じられない。さばさばとしすぎている。どうも語感までは踏み込めないらしく、そのあたりに留意して読む必要がある。
 「どぶ」に関する個人的な語感を付け加えておく。
 私がむかし通っていた中学校への登校時に、とある小さな鉄鋼工場の裏手を必ず通るのだが、そこは知る人ぞ知る“どぶ沼”であった。あれは下水路だったのか古い灌漑用水跡だったのか判然としないが、どぶ川に工場が垂れ流した黄褐色の汚水がさらに流れ込んで、一面、汚水だらけの溜まり池となってしまっていた。所々、泡が生き物のようにうごめき気体を発していたりして、いかにも悪臭漂うどぶ沼だった。当然、夏は得体の知れない虫が湧く。
 子供の頃にそういう環境を知っていると、思わぬ言葉で敏感に反応する。
〈どぶい!〉。
 「どぶい」とその子は言った。初めて聞いた言葉だった。
 どぶという名詞が形容詞に転化した、「汚い」と「臭い」を両方意味した、驚きの言葉。
 どぶい。
 クラスメイトが発したその言葉を、私はたった一瞬だけ聞いたのだ。そのクラスメイトが他のシチュエーションで使ったことはおそらくないだろうし、流行って使い回しされたという記憶もない。だがこの、「どぶい」という形容詞の造語は、私の中で鮮烈なインパクトがあって記憶に残った。いったい何がどぶいのかは忘れたものの、まさに生活の中のどぶという存在が、子供の身体感覚までを無意識に揺さぶり、その結果あのような言葉が発せられたことだけは確かだろう。
 広辞苑の話から、ついそんなことを思い馳せてしまった。

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