【宮坂静生著の随筆「母なる地貌」】 |
岩波PR誌『図書』2月号掲載の随筆で俳人・宮坂静生氏の「母なる地貌」を読んだ。最初は何気なく読み始めたのだけれど、これは、と感極まった。言葉としての感動がそこにあったのだ。私は日本人として、その随筆に鏤められた日本語の繊細な感度や質感、日本の国土や歴史との複層的な絡み合いに酩酊し、しばし体を震わせながらこの随筆を読み返さざるを得なかった。たいへん美しい詩情豊かな文章である。
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「母なる地貌」。ここに記してある主題をより良く味わうために、一旦は、自前で用意した日本地図を机上に開くべきだ。
日本という国土の、その地形地理の具合の粛々たる浪漫あるいは情念に身を委ねることは、文学を味わうことと密接な関係にある。そう思われないのであれば、日本語の本質的な美しさや情理のきらめき、思慕の哀感を決して味わうことはできないであろう。私が用意したのは平凡社『世界大百科事典』の日本地図である。[日本の周辺・海流]という区分で日本列島全体を眺めてみた。しばし時間を忘れて見入る――。むろん、中国大陸や朝鮮半島との海洋を隔てた“一連なり”の、その悠久なる蜜月にも、浪漫や情念として込み上げてくるものがある。
まずは北緯40度の男鹿半島の位置を視認する。そこは日本海の東側である。序で、北緯30度の屋久島(鹿児島県の大隅諸島)と中之島(鹿児島県のトカラ列島)の位置を見る。こちらは東シナ海の東側。北緯40度より北は冬が長く、奄美大島から沖縄諸島より南は夏が長いと、宮坂氏はこの随筆の冒頭で述べている。
次に、地図の[長崎県]の区分を開く。五島列島の福江島の、北西に突き出た三井楽半島。そこにある柏崎の港。《最澄や空海ら遣唐使が日本を離れる最後に風待ちした港》と称した宮坂氏は、そこを《茫々たる》と表現した東シナ海の性格を叙情的にとらえ、海の果て――強いて言えば遣唐使の難破船――に思いを馳せる。《茫々たる》とは、広辞苑によると、「ひろくはるかな」さまなこと、「とりとめのない」さまなこと。しかしそれ以外にもこの言葉からは、一抹の暗さや不穏さが感じられてならない。
ところで、「地貌」(ちぼう)とはどういう意味か。宮坂氏は「母なる地貌」の中でこう書いている。
《風土ということばは格好が良すぎる。どこでも通用する景観を指すだけに個別の土地が抱える哀感が伝わらない。むしろそこにしかない人間の暮らしを捉えた地貌のことばに惹かれる》
(『図書』2月号・宮坂静生著「母なる地貌」より引用)
Wikipediaで“宮坂静生”を調べてみると、こういう説明文があって分かり易い。参考までに抜き取って引用する。
《風土詠を得意としており、風土を概念的に捉えるのではなく、原始感覚・からだ感覚をもって「地貌」(その土地のもつ荒々しい表情)を捉えることを提唱。標準語化された季語体系に疑問を抱き、信州をはじめとする全国各地の特徴的な「地貌季語」を蒐集している》
(Wikipedia「宮坂静生」より引用)
岩波『新漢語辞典』(第三版)で「貌」をひくと、顔かたち、すがた、外観の物の様子とある。だとすれば、「地貌」とは、その土地や風土のかたち、すがた、物の様子ということになるだろうか。地方にはその土地独特の言葉があり、非常に土地柄の感覚が染み込んだ意味だとか、発音として情緒的な相があったりする。言葉とは、もともと、その場所の地べたと民のあいだから生まれてくるものだ。ついついそういうことを忘れてしまいがちである。
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【岩波PR誌『図書』2月号から】 |
読めば読むほど気持ちが高ぶってくる。随筆とは、言葉とは、じつに不思議なものだ。美味いものを食った後の身体のように、言葉を仕入れて火照ってくる感覚とは、いったいどういうものなのか。宮坂氏は最後の段落で、よりいっそう美しい古来の言葉を刻んでいる。そして読む者に美意識を揺さぶりかけ、謎を問うているかに思える。
《北国の山毛欅や楡の周りの雪解「木の根開く」》
《尺取虫の関西の方言「土瓶割り」》
《沖縄の三月末から穀雨にかけ温和な季節の称「うりずん」》
俳句の世界から遠く隔てている一般人の語彙からは、なかなか引き出しとして出てこない土地柄の濃い言葉。俳句歳時記によると、「木の根開く」は根開(ねあけ)、根開(ねびらき)とも言い、木の根もとの雪が解けること、とあって、その雪解けの現象と頃合いを指すようだ。広辞苑には「土瓶割り」はこうある。《(保護色や擬態によって小枝を見誤り、土瓶を吊そうとして落として割ることがあるとしていう)クワエダシャクなどの幼虫の俗称》。「うりずん」は大辞林を引くとこうある。《(沖縄地方で)初夏。陰暦二、三月の頃。うるじん》。
土地の人々が発し、耳から伝わった「言の葉」の永きにわたって肥えた土壌の土臭さのようなものが、これらの言葉から感じられよう。
言葉は新鮮で、謎めいている。思わず何かの拍子に面白く使ってみたくなる気分に駆られる。が、その土地柄を理解するものでなければ、単に言葉の遊戯となり、真の風流には到達し得ない。己の体から沸き立つ言葉――それは自らが体験した地べたからの叫びや囁きであって、言葉にはやはり、発せられた者の魂が宿る。故に、言葉を通じて自らの存在はネイティヴであれ――という強い信条こそが、宮坂氏のいう「地貌」の本質なのではないだろうか。
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