開高健の『開口閉口』と専売公社の話

【開高健著の珠玉のエッセイ集『開口閉口』】
 “大人の体を成す”の内面を醸成したかったら、二十歳を過ぎて開高健を読め――と私は呟く。開高健は案外、男性の読者よりも、女性の愛読者の方が多いのではないか。できうるならお薦めしたいのは、『開口閉口』(新潮文庫)だ。開高氏の珠玉のエッセイ集である。これを読むと、大人としての分別がつき、“世界”が見渡せる。そして思わず、旅に出てみたくなる。“世界”と言っても、それは必ずしも良識の世界ではない。ズブズブと人間を丸呑みして血反吐を吐く、恐ろしい魔境の“世界”であることもしばしば。ともかくこの一冊を読めば、感覚的に人間“世界”が理解できるはずである。
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 6年前私は、当ブログ「ピーティーファンさん」で、『開口閉口』の本を紹介するため、そのうちのエッセイ「陽は昇り陽は沈む」について書いたことがあった。このエッセイはたいへん含蓄に富んで面白い。まさに“世界”は魔境の巣窟であることにも頷く、途方もない人物と酒の飲み方について開高健は語っているのだった。
 「陽は昇り陽は沈む」で登場するのは、かの大富豪・薩摩治郎八氏である。氏については少々詳しく、当ブログ「『洋酒天国』の裸婦とおとぼけ回想記」で書いておいた。開高氏は、薩摩治郎八という人物について、エッセイの中でこう表現している。
《ケタはずれの豪遊をパリでやった珍しい日本人の一人に薩摩治郎八氏がいた。この人は父祖の築いた産を一文のこらず使い果たす目的で暮らしていたというのだから類がない。日本人館を寄附し、純金のキャデラックを乗りまわし、ラオスの王様に招かれてインドシナ半島まで遊びにでかけたりする暮らしぶりで、日本人で『ヴォーグ』誌に登場したのはこの人ぐらいのものだろう》
(新潮文庫・開高健著『開口閉口』より引用)
 戦後、薩摩氏は日本に帰国しており、昭和31年に開高氏は、自身の『洋酒天国』の連載原稿を依頼するため、東京で薩摩氏と出会っている。そうしてちょくちょく、薩摩氏は開高氏を浅草に連れ出していたらしいのだ。そこでなんと薩摩氏は開高氏に、“エンコ・ビール”を飲ませるのである。
《この人はその頃、浅草の踊り子さんに夢中になっていて、ときどき私を浅草へつれていって、屋台や大衆食堂でエンコ・ビールを飲ませてくれた。エンコ・ビールというのはあちらこちらの店で毎夜でる客の飲みのこしのビールである。それを集めて瓶につめなおしたビールである。それを集めて瓶につめなおしたビールである。客にだすときにはちょいと瓶をふるというのがご愛嬌だった。そうしないと元気よく泡がたってくれないというのである》
(新潮文庫・開高健著『開口閉口』より引用)
 エンコ・ビールのことを“ルンペン・ビール”とも言うらしい。帰国し既に凋落の途にあった薩摩氏にとって、懐かしいのは若かりし頃の、パリでの豪遊の記憶。貴族人、財界人、政界人といった各界要人の交際における美醜入り混じったエピソードや酒飲み作法など、贅沢存分に知り尽くしている人である。そんな彼が日本に戻り、浅草で“ルンペン・ビール”に酔いしれる気分というのは、いったいどういうものであろうか。おそらく凡人には想像もつかないたぐいの、幾多の経験譚の《究極の一滴》に違いないのだ。開高氏はそれを、浅草界隈で目の当たりにしたわけである。
 薩摩氏のパリ時代のあだ名についても、エッセイでは面白く綴られている。
 “ムッシュウ・シャ・ノワール”。「シャ・ノワール」とは黒猫のことで、《アチラでは女の秘めどころ》と書いている。そして開高氏がわざわざ、蛇足と付け加えているのは、そちらの方面にえらく詳しい、自身の蘊蓄である。実は「シャ・ノワール」以外に、ミネットとも言うのだという。ミネットとは、《英語のプッシー・キャットにあたる。例の《69》のことは、そう呼びもするが、別名を《ポンピエ・エ・ミネット》と呼ぶ向きもある。《消防夫と仔ネコチャン》の意》。この解説で、妙に頷いてしまう私も私だが、なんたる豊饒。なんたる諧謔。これぞ、“大人の体を成す”の享楽至極ではないか――。
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 一気に話を変える。開高氏の『開口閉口』から離れる。
 “大人の体を成す”という主題に絡めて、もののついでに、私自身の少年時代の“特殊な記憶”について、ここで触れておきたくなった。大いにつまらぬ話ではあるが…。
 東大農学部出身で、醗酵学を専攻した酒の世界的権威・坂口謹一郎氏の、酒に関する名著『世界の酒』(岩波新書)を読むのが、今となっては私の愉しみの一つとなっている。この本は1957年初版で、古いと言えば古い本である。しかし、『世界の酒』は、実に博識に富み、酒好きの知識欲を大いにくすぐり、ワインやウイスキー、ビールなどといった世界の銘酒の夥しいほどの蘊蓄に溢れており、まさに“読んで愉しむ酒の肴”と称することができよう。
 1957年というと、その前年の昭和31年のこと、壽屋(サントリーの前身)の宣伝部に勤めていた開高健は、PR誌『洋酒天国』を発行し、これがトリスバーなどにおいて大評判のヒット・アイテムとなっている。サントリーのトリス、オールド(通称ダルマ)、角瓶などといった当時の国産洋酒銘柄の一大ブームを築いたのもこの頃で、坂口氏の『世界の酒』は、そういう時代の雰囲気の中で出版された。
 『世界の酒』の、ポルトガルの“ポート・ワイン”の章がまことに興味深く、何度も読み耽っているのだけれど、そういえば、ここでのある他愛ない文章に目が止まったのがきっかけで、古い記憶を思い出したのだった。
《日本で昔栄えた「ポート・ワイン」は、葡萄酒に砂糖などを入れて造るのであるから、むしろヴェルモットというべきで、しかも、漢薬の草根木皮を入れる香ざん葡萄酒などは、まさにヴェルモットそのものである》
(岩波新書・坂口謹一郎著『世界の酒』より引用)
 私はてっきり、国産の砂糖などというものは、随分昔から貴重な甘味料であるから、タバコや塩などと同等に、「専売公社」で売られていたのだ――と思い込んでいた。そういう間違った認識を、子供の頃からずっと持ち続けていたのである。
 それは、こういう記憶があったせいだ。私が住んでいる市の中心部の、ある大通りの交差点には、その昔、仰々しいほどの堅固な建物が存在した。その目に付きやすい建物が、「専売公社」の倉庫だったのだ。幼少の頃、あの建物を眺めながら――まったく奇妙なことではあるが――“大人の体を成す”自己の将来に憧れを抱いていたのである。
 その倉庫の外壁は、コンクリート塗りあるいは漆喰塗りだったと記憶している。とにかくデザインも色彩もへったくれもなく、ただただ無機質でなんの色気のない、古い軍事施設かのような巨大な建物であって、度を超して禍々しいとさえ感じられた。大人は、ああいう工場だか倉庫だかの秘密基地に、子どもには“絶対見せられないようなもの”を隠し置いているに違いない――と私は想像したのだった。
 それがどういうきっかけだったかまでは憶えていないけれども、「専売公社」で造られている(保管されている)物品は、単なる塩でありタバコであり…というのを教えられて、あまりにも庶民的すぎる品ではないかと憤慨し、愕然としてしまった少年の頃の記憶がある。秘密基地の「専売公社」の幻想は、そこでもろくも崩れ去ったのだ。と同時に、ある種投げ遣りな気分の中で、〈塩だって砂糖だって同じだろう〉という観念が、砂糖も「専売公社」の専売品であるという思い込みにすり替わったのである。
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 かえすがえす述べておくが、砂糖の製造は、「専売公社」とは無関係である。「日本専売公社」について、ウィキペディアを読んでみた。
《大蔵省の外局だった専売局が1949年(昭和24年)に分離独立し、同省の外郭団体として発足した。1985年(昭和60年)に民営化され日本たばこ産業株式会社(JT) が設立された》
(ウィキペディア「日本専売公社」より引用)
 1949年に大蔵省専売局から独立し、「日本専売公社」(特殊法人)はタバコ・塩・樟脳(しょうのう)を専売品として扱っていたという。したがって砂糖はこことはまったく関係がなく、私の勝手な思い込みであり、その思い込みは成人を過ぎても消えなかった。ちなみに「日本専売公社」は、1962年には樟脳が専売品から外され、1985年に民営化される。タバコの独占製造権と塩の専売権は残ったものの、1997年に塩の専売制度が廃止。2002年に、塩の販売はようやく自由化された。
 子供の頃、親が飲んでいる赤玉ポートワイン(現在は赤玉スイートワイン)を眺めて、まさにこれは、大人が飲むものとした想像の背後に、この赤い飲み物は、アルコールと共に砂糖に満たされた“甘い飲料”なのだという憧れの観念が、婉曲して飛躍したのだった。一方の別の観念として、「専売公社」という何か怪しげな雰囲気の建物の中で、結果的にはそこでタバコであり塩であり、といった庶民的なものを扱っていることが分かり落胆するのだけれど、砂糖も専売品の一つだろうという勝手な思い込みが、先の“甘い飲料”の衝撃と相まって化合した、という口実である。
 ――まことにつまらぬ話かと思われる。“大人の体を成す”と酒にまつわる話が、変に複層化してしまって恐縮極まりないが、開高健のエッセイや小説で酒を習い、ある種の自家中毒的な滋味に酩酊し、自身の記憶と混濁して――と言えなくもない。酒は醗酵し、ふくよかとなる。早く、“大人の体を成”したいものだ。

 「開高健『開口閉口』―アリ釣りとオスとメスの話」はこちら

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