【カゼの緩和の軟膏剤であるヴイックス・ヴェポラッブの匂いとは?】 |
ある匂いと過去の記憶とが潜在的に結び付いている時、その匂いを嗅ぐと、不意に過去の記憶が呼び起こされる――という現象を、「プルースト現象」というらしい。フランスの小説家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の小説の中で、主人公が、紅茶に浸したマドレーヌの薫りを嗅ぐと幼少期を想い出す――という挿話からつけられた現象とのこと。さらには、香水の匂いを嗅いで、過去の恋人の記憶を想い出してしまう、シンガーソングライターの瑛人さんの曲「香水」の歌詞における主人公の体験も、「プルースト現象」であると、2020年12月22日付朝日新聞朝刊の記事「古い記憶 呼び起こす引き金」で、心理学者・山本晃輔氏の“匂いと記憶”に関する考察を、私は読んだ。
この記事の中で喩えられているある事柄が、はっとなって、私自身の過去の記憶を思い出すきっかけとなったのである。記事にこうある。
《「懐かしい記憶」を引き出す実験でどの匂いを使えばいいか。オランダでは「ヴイックス・ヴェポラッブ」という塗り薬の匂いが最適とされます》
(2020年12月22日付朝日新聞朝刊「古い記憶 呼び起こす引き金」より引用)
嗅覚(sense of smell)によって過去の記憶を呼び起こす実験――。なんともエキセントリックなサイエンスの話であるが、国によって実験に差異があってはならないので、どの匂いを使えばいいかという観点で、オランダでは、「ヴイックス・ヴェポラッブ」が最適なのだという話を、山本氏は指摘する。
“ヴイックス・ヴェポラッブ”と聞いて私は、子供時代のある鮮烈なる記憶を思い出した。それは、その頃テレビで見た、「ヴイックス・ヴェポラッブ」のコマーシャル(厳密に言うとCF。当時はコマーシャル・フィルム)である。幼児がベッド上で露骨に胸元をさらけ出され、母親の指先によってこの塗り薬が塗られていく、短い1ショットなのだが、その1ショットを見た私は、とてつもなくエロティックな感覚を抱いたのであった――。
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【2020年12月22日付朝日新聞朝刊「古い記憶 呼び起こす引き金」】 |
「ヴイックス・ヴェポラッブ」(Vicks VapoRub)は、《鼻づまり、くしゃみ等のかぜに伴う諸症状の緩和》の効能・効果のある軟膏剤である。胸や喉、背中にこれを塗ると、体温で温められた有効成分が蒸気となり、鼻や口から吸入されて鼻づまりの症状を緩和して呼吸を楽にする。したがって、飲み薬を処方しづらい幼児や高齢者にとても効果的な、カゼの症状の緩和薬(指定医薬部外品)ということになる。ちなみにヴェポラッブ(VapoRub)とは、“蒸気”の意であるvaporと、“こする・摩擦する”の意のrubを組み合わせた造語である。
蛇足になるが、私がコマーシャルで見ていた頃の「ヴイックス・ヴェポラッブ」の発売元は、日本ヴイックス社であった。ただし今は、大正製薬である――。
医薬品や化粧品を扱う会社の、“流転史”とも言えるような栄枯盛衰は、はなはだ時代的で複雑であり、ある種ミステリアスで、時にアイロニーを帯びて辛酸を舐めていたりもする。こうした“流転史”は、少し大袈裟に誇張すれば、西洋の植民地支配の名残の、“悪習的栄華”とも思えなくもない。もっと露骨に言うと、アメリカ西部開拓時代のような、古めかしい商売の臭気が、今にも漂うのである。
【人はこの薬の匂いで幼少期の記憶が呼び起こされるのか?】 |
Wikipediaによると、日本ヴイックス社は、1966年、その親会社であるアメリカのリチャードソン・ヴィックス(Richardson Vicks)社と日本の伊藤忠商事とが共同で設立した医薬品会社ということになっている。もともとそれ以前にヴィックス社の商品は、大阪の阪急共栄物産が輸入販売していた。ヴイックスの商品と言えば、他にも“ヴイックス・メディケイテッド・ドロップ”ののど飴が知られている――。ここでの経緯を簡単に言うと、阪急共栄物産より分離独立して日本ヴイックス社が設立された、というわけである。
1985年、経営が悪化していた親会社のリチャードソン・ヴィックス社は、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)社の傘下となる。それに伴い、88年、日本ヴイックス社は、プロクター・アンド・ギャンブル・ヘルスケア株式会社に社名変更する。94年には、マックスファクター社に吸収合併され、P&Gヘルスケア事業部となる。2002年、P&Gは大衆薬事業から完全撤退し、P&Gヘルスケア事業部は廃止され、「ヴイックス・ヴェポラッブ」にかかることこまかな権利のたぐいは、大正製薬へ譲渡される。
ニューヨークのユニバーシティ・ライブラリー(UNC)でアクセスできる資料によると、リチャードソン・ヴィックス社の前身の創業者であるランスフォード・リチャードソンは、1898年、ノースカロライナ州にてビジネスを開き、1911年にヴィック・ケミカル・カンパニーを設立したという。この時既に、カゼの軟膏剤である“Vicks VapoRub”なる商品で利益を上げていたということなので、これらの歴史はたいへん古い。ランスフォードの商いは、のちに子息らが継いだ――。
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現物がここにある。
まことに残念ながら、幼少期にこの薬を母親に塗られた実地の経験は――ない。その頃、というか大人である今でもそうなのだけれど、私は普段ほとんど風邪をひかず、病気で学校を休んだ経験自体、高等学校までの12年間を含めても、片手で数えるほどしかないのである。あくまでこの「ヴイックス・ヴェポラッブ」の塗り薬の記憶は、テレビの中のエロティックな幻影なのであった。
したがって、「ヴイックス・ヴェポラッブ」がいったいどんな香りを放ち、それがオランダの子ども達にどんな感覚をもたらせたか、今日の今日まで知る由もなかった。ということで、蓋を開けてみる。予想していたよりも、甘ったるい香りと言うべきか、確かに湿布薬のメンソール的な、鼻を仄かに刺激する香りではあるけれども、強烈な――というほどではない。
くしゃみをともなったその日の夜、着ているパジャマのボタンを外され、満遍なくすくい取られた「ヴイックス・ヴェポラッブ」を、その母親の指先によって自身の半裸に塗られていく様を想像し、艶めかしい指先のぬくもりと共に、そこに漂う塗り薬の匂いの、何たる麗しき天使たちよ――。幼少期とは、これほどまでに美化されて良いものなのだろうか。
唖然とするほど悔恨の念に晒される今、いくらそれを思い馳せてみても、古き時代に取りこぼしてしまった経験は、複製すらもできないのである。空しいというばかりか、生の切ない阿鼻叫喚に打ちのめされてしまうのであった。2020年の冬…。
もはや、プルーストの小説に、自己の想像の全権を委ねる以外に方法はなかろう。匂いによる記憶の照合。その秘めたる記憶が匂いによって呼び起こされる時、人は何を想い、何を感じるのか。永遠なる夢想に浸っていたい。
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