消えゆく写真

【FUJIFILM X-T3で試し撮り。被写体はLEICA IIIc】
 元日の午後、手持ちのカメラ(FUJIFILM X-T3、レンズはFUJINON XF18-55mm F2.8-4.0 R LM OIS)でアンティークと化したLEICA IIIc(レンズはCanon SERENAR 50mm F1.9)を被写体に試し撮りをおこなった。ここ数日間続いた日本海側の寒波の煽りで、関東地方は異常なほど冷え込み、ただただ日光が神々しく、温かく、優しさをも醸し出しているかのようで、直接光と間接光に包まれたアンティークの被写体は何か、その機械的な佇まいの中に、微睡んでいるようにも見えた。
 しかし一方で、いずれ消えゆくかも知れないアンティークの宿命の儚さもまた、写真という風雅の物悲しさを表している。《所有》とは、実に悲しげな行為なのである。ともあれ、個人的なクラシック・カメラの思い出は尽きることがない。私の記憶は、およそ20年前のウェブへといざなわれる――。

➤写真とカメラを教示したmas氏

 20年前のインターネットがきわめて遠い事象となりつつある、コロナ禍を経た時代の流れ。世相流行の移ろいはともかく、社会生活全般の隔世を感じるのは、私だけであろうか。今こうしてブログに文章を書いていることも、自身のウェブサイトをいくつか構築し、音楽や映像や写真などのポートフォリオを細々と展開しているのも、およそ20年前より私淑していた、mas氏のウェブサイトをお手本にしたものなのである。インターネットとのかかわり方、その作法や流儀について、詫び寂の何たるかまでも教示されたように思える。
 20年前、彼に倣ってクラシック・カメラ遍歴(別の鋭い言い方では「クラシック・カメラ・ウイルス」とも言う)にどっぷりと浸かり、写真とカメラによる悦楽の日々を送っていたあの頃が、ひどく懐かしい。
 mas氏に関しては、昨年の「思い出のmas氏―池袋のお馬さん」やそれ以前に多くテクストを書き連ねているので、ここでは詳しく書かない。
 今はネット上に現存していない、彼の旧ウェブサイト[mas camera classica]では、洒脱な文章でカメラや写真についてとくと語られていて、その内容に私も感心したのだった。一部をコピーしてテクストファイルとして記録していたのもとうに忘れ、それをPCのハードディスク内から昨年発見したのが、前述の“池袋のお馬さん”だったのだ。実はもう一つ、mas氏の別のテクストで「間接光たっぷりでたっぷり露光」というタイトルのエッセイを発見したので、以下、全文を引用させていただく。
《「間接光たっぷりでたっぷり露光」
 普段はモノクロ写真ばかり撮っているわけだが、もちろん、たまには、カラー写真を撮ることもある。そのたび、思うことは、カラー写真撮影とモノクロ写真撮影は、全く別のテクニックを要するということである。
 こんなことを私が書くのはおこがましいのだが、モノクロ写真撮影の際に特に意識することは、直接光、間接光がどのような状態にあるかということである。直接光があたらず、間接光がたっぷりの光線状態、たとえば、早朝の日当たりの良い部屋、快晴の日の木陰などで、背景は明るく、かつ逆光ではないアングルで、1~2段オーバーで撮影するのが、グレーの階調を美しく記録するための最良の条件と信じているが(私はハイライトがにじむのが大好きだということもある。)、もちろん、このような条件では、引き締まった黒など、望めないし、それ以上に、同じ条件でカラー写真を撮ろうものなら、間の抜けた写真しか撮れないのはまず間違いない。
 また、カラー写真がその性質上、肉眼による画像に追いつこう、追いこそう(肉眼の画像よりも鮮やかな色)、という意識が働くのに対し、モノクロ写真においては、そのようなことはなく、むしろ、肉眼による画像と写真に記録される画像とでは、全く別なものになるということを常に意識しなければならない。
 モノクロ写真が、光量そのものを記録するような特徴があるのに対し、カラー写真は、文字通り、被写体それぞれがもつ固有の色を記録する。もちろん、被写体固有の色と言っても、被写体に当たった光から特定の波長が吸収された残り成分が反射し、色としてフィルムに記録されるわけだから、同じ被写体を同じフィルムで撮影しても、光の条件が違えば当然違う色として記録される。
 この「色」を美しく記録するテクニック(経験則)を私は身につけていない。推測するに、フィルムとレンズの組合せでコントロールするとか、日中シンクロなどストロボを駆使するとか、そういうこともあるだろうが、もっと重要なのは、構図に関するテクニックだろう。もちろん、絵画的に美しい構図という意味ではなく、色の配置、色の取捨選択のテクニック。でも、具体的にどうやっていいか判らない。つまりは、カラー写真で記録したいという被写体に出合うことがほとんどないのである。これは問題だ》
(ウェブサイト[mas camera classica]2001年12月6日「間接光たっぷりでたっぷり露光」より引用)

➤家族写真を撮り続けたmas氏

 彼の味わい深いモノクローム写真については、例の写真の「池袋のお馬さん」を見ればよく分かる。古い沈胴式レンズであるライカのエルマー(Leitz Elmar/50mm F3.5)をソ連製のゾルキー(Zorki)のカメラに装着し、池袋御嶽神社の境内であれを撮影したのは、2000年の夏のことらしい。もしその時、カラーフィルムを用いていたならば、彼は現像して出来上がった写真に、満足しなかったかも知れないのだ。
 ところがその後、mas氏は、最愛の家族のスナップ写真においては、カラーフィルムを多く用いていた痕跡がある。以前紹介したベアーの写真もそうなのだけれど、その頃誕生した愛娘や子息の写真は、どちらかというとカラーが多かったようにも思える。
 適宜構図を気にし、モノクロームにおいて光と影の調和を図っていたmas氏は、新たな試作として、家族をカラーで撮り続けてみよう――と思ったのではなかったか。
 今でもWWWのサーバー上には、放置されたままのmas氏の別の旧ウェブサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)が現存しており、そこに「成長記録」というタイトルが付けられ、愛娘や子息の成長していく様子の写真が残されている(※この旧ウェブサイトは、海外のサーバー上に放置されており、セキュリティ上のリスクが多少あって、頻繁にアクセスすることはお薦めできない点を留意していただきたい)。
 そのウェブの、2006年9月に誕生した子息のフォトアルバムを、まことに勝手ながら、ここに転載させていただく。この旧ウェブサイトがいつ抹消されるか分からないことと、セキュリティ上のリスクがあるため、リンクを貼ってアクセスを促すのを避けたいためであるがゆえ、お許し願いたい。
【mas氏のウェブサイト[msbcsnb]より「成長記録」】
 mas氏の子息のフォトアルバムを閲覧すると、モノクロームとカラーが入り混ざって並べられているのが分かる。10月付のモノクロームの写真においては、生まれて間もない子息の姿の、これ以上ないであろう柔らかな実存の神々しさに、彼の写真技術が半ば根負けし、経験則で培った“間接光たっぷりでたっぷり露光”の技法がなおざりとなって、オーバー気味に「徹していない」のであった。つまり、赤ん坊の顔は陰で黒っぽくなっており、周囲のハイライトも決して「にじんではいない」――。
 今この子息は、16歳となるのだろうか。愛する家族の存在感に、クラシック・カメラ遍歴の経験則が「役に立たない」というのではなく、非可逆の《生》というものに対して、唯一抵抗できることといえば、その変容の途上の一瞬一瞬を記録することであり、mas氏はその場において技巧に執着するのを避け、一瞬一瞬の記録に全力を傾けたということなのだろう。なおかつ、今もってウェブ上に奇跡的にも、この子ども達を写した「成長記録」が残存していたことによって、私という眼の網膜に焼き付いた次第であり、私にとって思索の意味性の、決して小さくない萌芽となっていることを明示しておきたいのである。

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