漱石の『草枕』

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2008年2月12日付「漱石の『草枕』」より)。

 『草枕』読了。漱石初期の小品で、何気ない自然の描写が冴えている。修辞の手本になった。「羊羹」の描写と含蓄が漱石らしく頗るいい。さほど好きでなかった羊羹が好きになってしまうほど。『草枕』では、そうした造形描写を丁寧に推し進めて、本質的な内面を極端に暈かしている。

 〈20世紀を代表するものは汽車だ〉と強く断定した書き手の心情は、これからの世界が物質至上主義、資本主義経済などが極度にまで発展し、人間社会が大きく変革せしめられ、歪んでいく、退化する、ということへの警告と皮肉であろうか。しかし、主人公が東京を離れ、熊本の奈古井にまで旅をすることができたのも、また汽車のおかげである。その歪み始めた都会生活から逃れるためには、やはり汽車が必要であったのだ。ともあれ、明治の「芸術論」≒漱石の芸術論が浮き彫りになった文学であろう。
 先の『草枕』における現代文明の歪みも旨みも、21世紀初頭は数珠つなぎであって、故に人情に揺れ動かされるのも現代文明の宿命である。そこに日本国土の一部分が加わるから、見る者はそれを叙情的という。
 ミレーの「オフィーリア」である。私にとってオフィーリアと言えば、シェイクスピアのそれではなく、夏目漱石『草枕』のオフィーリアである。
 あっと思った。湖に浮かぶ女の死体。なるほど、ある種の美的官能は感じられるし、漱石が関心を寄せたのも頷ける。
 それにしても、後景の植物の描写は凄まじい。美しい死の女性を描くため、ミレーはその高揚感を存分に揮発させるため、抑制的に繊細な後景を描いた。ぢりぢりと自己抑制し、官能を意識しながら、地味な作業に没頭した形跡。そして死の女性の描写の完成へと移り、自身をも快楽に耽ったのではなかったか。そんなふうに感じてならないのだ。
 さて、そこに「東京」がある。現代において、そこに超高層ビルがあろうとなかろうと、私の東京を見る眼は、もはやメルヘンチックな、遊園地の中の、少し頽廃したオブジェや絵画のようなものであり、その懐古趣味を含んだ江戸川乱歩の小説の世界である。それはそれでまたいい。何かそこに新しいものがあるという感覚は消えてなくなり、オルゴールの奏でる微細な音色にも似た、アヴァンギャルドとアナーキーがあるだけだ。そう、遊園地の中で泣き叫ぶ、両親を見失った迷子のように。
 しかしそうした想念も、漱石の『草枕』における芸術哲学や思想を原野とした、”東京主義”がもたらしている。明らかに時代は変わり、私の手中のカメラのレンズがとらえるものは、抜け落ちた色彩の中での都市の有り様なのでないか。

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