※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年2月3日付「入学式回想録」より)。
《自己の「生」を記憶によって述懐する時、その史実が曖昧になっていくのは、どうしても避けられないことだ。前後の脈絡がはっきりせず、その史実が一体何を表していたのか、判然としないことがしばしある。
1991年、私は東京・台東区にある専門学校に入学した。この時、入学式は校内で行なわれなかった。では一体どこで催されたのか。たしか、どこかの町の、中規模ホールを貸し切って行われたはずなのだが、はっきりとしたことはなかなか思い出せない。
僅かに残存していた記憶は、ほとんどが皮膚感覚的な記憶であった。ある駅に降り立ち、ほぼ直線に伸びた道路を歩いて行くと、一軒の書店があって、その書店に立ち寄った記憶がうっすらとある。そしてそれから、会場のホールにたどり着くと、たくさんの学生が集まっていたはずだ。そこで私は、小学校の同級生だった女性と、偶然出会ったのだった。〈まさかこんな所で会うなんて〉と、お互い驚いたことは覚えている。がしかし、その後のことはやはり思い出せない。
帝国書院『最新基本地図』の都心部のページを広げ、駅から直線に伸びた道路に一軒の書店が点在する町、そしてそこから歩ける距離圏内に中規模のホールがあるかどうか探した。新宿や池袋、渋谷界隈ではない。従って、場所を神田界隈と麹町、虎ノ門付近に限定した。あの入学式を行なったホールは、どことなく議員会館のような雰囲気があった。絞った区域には、それらしき場所があるような気がしたのだ。
地図を調べていくうちに、地下鉄の神保町駅から武道館を行く方角に、九段会館というホールがあるのがわかった。神保町駅周辺は書店ばかりだし、駅からの距離も決して遠くない。内堀通りに面したこの九段会館の裏は、牛ヶ渕という北の丸公園の濠になっていて、場所的にも合っているだろうと思った。何より、この九段会館という響きが、議員会館と雰囲気を酷似させているように思われた。
ここで思い出したのが、高校時代に付けていた日記の存在である。その日記の最後半、たしか専門学校の入学式について書いた覚えがある。それを見れば、日時や場所が確定できるに違いない。そう思った私は、机の引き出しの奥にしまわれていた日記を、何年かぶりに取り出した。
[4月11日(木) 昨日から学校が始まりまして、午後駅に行ってみると、島崎くん(仮名)に会うことができました。彼も専門学校に通うそうで、池袋にあるギタークラフト科に進みます。彼の夢はどうやらスタジオ経営だそうで、今後の活躍が楽しみです。それから新橋に行くと、古谷恵美(仮名)がいました。何と同じ学校だったのです。その代わり彼女はデザイン科でして、会うことは少ないかも知れません]
ここで分かったことは、その日二人の友人と偶然出会ったこと、それから入学式の日が4月10日の水曜日であったこと、そしてその場所が新橋であることの3点である。
私はもう一度地図を手に取り、新橋駅のページを開いた。確かに駅の目の前に「雄峰堂」という書店があり、駅の烏森口から北へ、直線の通りが伸びている。この道をまっすぐ進み、虎ノ門病院そばの交差点を右折し、少し行くと「虎ノ門ホール」というのがある。もはや、この町に間違いない。新橋駅から歩いたその当時の距離感や方角を照合すると、皮膚感覚の記憶と日記に記してあった駅名とが見事に合致する。
[4月2日、入学準備日。四国・愛媛県からやってきた篠本謙也(仮名)という男と知り合う。この男は北千住近くの町にアパートを借りた。仕送り10万。同じ音響芸術科]
入学のための教材やら書類の手続きなどで学校に訪れた日、突然話しかけてきた男が篠本であった。以後彼と行動を共にしたが、授業が本格的に始まるやいなや、彼は別のクラスでほとんど顔を合わせる機会がなくなり、廊下ですれ違う際、ちょっと会釈する程度に落ち着き、知り合いの範疇を越えることができなかった。その後、篠本は、期末試験で赤点をとり、留年。
留年をよしとしなかったのか、あるいは音響芸術科そのものに嫌気がさしたのか、翌年から宣伝クリエイティブ科に転入。以後、彼が学校をうまく卒業できたのかどうか、私にはその手の情報は伝わっていない。
いずれにしても、北千住付近のアパートのこと、仕送り10万云々――といったことは、記憶を完全に凌駕した取材的記述であった》
§
〈1991年4月2日(火)
…今日は学校の準備でした。ちょっと遅れてしまいましたが、どうにか間に合いました。でも今日の旅というものは、今までの旅と違うきんちょう感があったと思います。不思議にも初めての今日であるのに、すばらしい出会いに遭遇しました。時間を遅らせた自然は正にこの瞬間のためだったと思います。この出会いはこれからの生活の第一歩であり、相当の安心感を持つことができたのです。彼の故郷ははるばる四国の愛媛にあります。それから埼玉の北千住の近くの町にアパート暮らしを始めたわけです。もちろん故郷から仕送り10万と、ちょっとのかせぎによってこれから毎日生活するわけです。東京についてこれから、どんな生活をするのでしょうか。これまた期待したいと思います。…〉(※〔埼玉の北千住〕は〔東京の北千住〕の誤認)
当時の手書きの個人日記は、青いインクの万年筆で書かれていた。生涯で初めて書き始めた日記であった。筆体は徐々に繊細になり、後半の頁は字数が増え、幾分内容も骨格のあるものと変化した。
この1991年4月2日は、入学(入校)の手続きと必要な教材などの手渡し事務が(1号館にて)行われた千代田工科芸術専門学校と私の最初のアプローチであった。とてもよく晴れた1日で、帰途、自宅のある町で電車を降りた私は、この日の出来事を噛みしめるようにして回想し、これほど早く仲間ができたことを嬉しく思いながら、自宅に帰って勢いよく日記に書き綴ったことを思い出す。学校というものがこれほど楽しいものであるかという喜び。それは味わったことのないわくわくした気持ちであり、それまでの学校に対する陰鬱なイメージを一新させる大きな出来事であった。そうしてその後、入学式が4月10日に行われ、本格的に新たな道程を歩むことになる。
ところが――。
愛媛出身の友人の他、いろいろな仲間が繋がっていく中、高校3年から書き続けていたこの一冊の日記は、5月5日の日付で終止符が打たれた。入学から5月5日までの日記には、ほんのごく一部に学校に関する記述があるだけであり、日記の終止符についての具体的な理由は触れられていない。そのごく一部とは、以下のような記述である。
〈…私にとってウェイン・W.ダイアー氏の本を読んで感想を書くという課題は既に無意味に限りなく近いことなのです。感想を述べることはできても、納得することはあっても、新たに見つけることができないのです〉(4月25日付)
ゴールデン・ウイークの連休に伴って芸術課程から課題が出された。ウェイン・W.ダイアー著『もっと大きく、自分の人生!』(知的生きかた文庫)を読んで感想文を提出せよ、という指示だ。
ここに日記の終止符理由の鍵が隠されていると思った。
つまり、何か重大なアクシデント、又は精神的な苦痛を伴う理由によって書くのをやめたのではなく、むしろ逆で、自分自身の心理を探ろうと必死になっていた高校時代の終幕を節目とし、今後はのびのびと生きようという開放的な気分と楽観的な意思が働いたのだろう。それは言わば、センチメンタルな《高校生日記》の終わりを意味していたのだ。であるならば、ウェイン・W.ダイアー氏の著書への半否定も頷ける。
しかもこの頃、中学時代の友人と再会しており、数年ぶりにラジオドラマの自主制作をやろうと意気投合し、後日、実際にそれを実行した。受験勉強の影に潜んでいなければならなかったそうした活動が、今や学業と変わりなく胸を張って堂々とそれができることは、私にとってどれほど開放的であり得たか。さらに付け加えて、この活動が発展深化していき、後々、演劇活動のための小劇団結成へと活発に動いていった。
§
時代は過ぎ去る。
2011年2月――。鶯谷から台東区根岸へ、3丁目の本藤理髪店の前を通り過ぎ、下谷へと彷徨った。
彷徨ったというより迷い込んだ。
妙なことに、その大きなマンションが建ち並ぶ路地を歩いても、私の心に懐かしいという気持ちが発露しなかったどころか、もっと正直に言えば、自分の歩いている場所がどこだかまるでわからず朦朧としているようだった。
――音ゼミの、あのドラム奏者の青年の顔が浮かぶ。ブラスバンドのチューニングのざわめきが鳴り終わると、一斉に大きな共鳴を響かせて、リズムの整った旋律が路地を突き抜ける。
ズズズズズズ…ババババババ…ブラ~ブラ~ブラ~ブラ~ブラ~ブラ………
画板を引っ提げた青年とその女性らは、煙草を吹かしながら通用口の縁に座り込み、何かを話している。落ち着いた雰囲気をぶち破る青年の威勢のよい言葉が発せられたかと思うと、一同は笑い声に包まれ、またしばらくして落ち着いた雰囲気へと戻る。
授業の合間に私は学校を出て、入谷の交差点付近にある書店で立ち読みをして本を一冊買い込み、再び学校へ戻ってきたところでそんな風景に出合った。それはむしろ忘れるべき他愛のない風景の一場面に過ぎなかった――。
無意識にカメラのシャッターを切ったその場所は、やはり学校の在った路地に違いなかった。しかし、音もなく、ただ午後の黄色い光が路地の空間を斑に射しているだけで、ありきたりな街の路地にしか見えなかった。目印は「文具の島田屋」と「都営下谷一丁目アパート」であるはずが、何故かそれらを視界に留めることができずに、私は浮き足立ったままそこを通り過ぎた。
やがて見えてきたバイク街の一端は、ところどころシャッターが下り、かつての活気は失われているようにも思われた。
だが注意すれば、息づかいはまだあると感じた。健気にも息をしている、と。それらがすべてを失い、真っ白な空間とならないうちに、私は渾然と記録し続けなければならぬと意志を傾けた。そこに居た彼らもまた、私と同じ心持ちであることを信じて已まない。
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