※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月5日付「写真の中の少年」より)。
ポロリと落ちてから今もゆっくり読み続けているジョイスの『若い藝術家の肖像』。講談社文庫のこの古本は、どうやら1979年頃の刊行で、非常に活字書体が美しく読みやすく、小説の中へぐんぐん引き込まれていくのだけれど、丸谷才一先生の、時に奇妙な文体・文節に出くわして、なんのことだろうと、改めて真新しい集英社版の単行本をめくって新訳を確認してようやく納得がいく、といった調子で読み進めているため、進む速度がとても遅い。何故集英社版で読み進めないのかと言えば、こちらは活字書体があまりにも現代的で読み易すぎ、小説の中へ引き込まれていく気配がない。総括すれば、本とはこういったことで面白いとも言えるわけです。
アイルランドの歴史に疎い私は、その宗教的政治的世界から《具象》をイメージするのがひどく困難だと思いながらも、何かジョイスの文体に惹かれるものを感じつつ、《具象》を掴もうと必死になっています。
これと似たようなことを、今年はずっと思い馳せていました。津波で家を失った家族が、もう一度跡に戻り、フォトアルバムを探し出そうと懸命になっている姿――。
フォトアルバムは家族の歴史を刻んだダンプリストであるが故に、それを失うということは、具象の記憶への可能性をより深淵まで研ぎ澄まさなければならず、日常を生きる上で非常に過酷であるとさえ思います。人はどうしても遠い過去を忘れていくもので、《写真》あるいは《映像》への記録こそが、日常的に最も簡便な補助的役割を担っているわけです。
2010年9月9日付のブログ「ある市民運動会の写真より」で紹介した運動会写真。本来、フォトアルバム=家族アルバムというのは、家族や親類縁者、友人知人の誰か(あるいはペット)が被写体となっているものですが、あの写真は偶然ながら父が運動会の光景を写したもので、そこに家族にまつわる被写体となる人物は写っていません。
【左半分は色彩をデジタル修復した効果】 |
もう一枚、同じ市民運動会の写真。こちらには、中央に少年が写り込んでいます。しかしこの少年は私の家族ではない。偶然、“被写体”となってしまったに過ぎません。
しかし写真的効果というものは実に不思議なもので、こうした他人であっても、私の記憶の中に深く刻み込まれ、もはやそれは他人の少年ではなく、自分自身にさえ思えてくるのです。
確かに、今…この瞬間に写ってしまった少年は、既に40代の中年男性である、それはあまり想像したくないが現実である…。この世に生きるものはすべて成長し、死へ向かって形を変えるものであるから、あの写真における少年は、現実写真の被写体でありながらも、あくまで「現実瞬間のわずかな一点」に過ぎない。
だとすれば、小説の中の成長する少年を、その《具象》を、どのようにイメージすれば良いのか。
背景となる町、そしてそこに立つ少年の、心と身体の成長をどうとらえれば、「読んだ」ことになるのか。ジョイスの底知れぬ謎かけに挑戦しつつ、自分にとって新しい「読み方」を発見したくて、尽きることがありません。
コメント