漱石のこと〈二〉

 私が高校時代に新潮文庫の『こころ』(原題『こゝろ』)を買い、その後、ますます漱石文学に夢中になり、同じく新潮文庫の『文鳥・夢十夜』だの『門』だのを読み始めた経緯には、やはり底辺に《明治》に対する漠然とした関心が強くあったからだろう。特にその時代の文化的特質を思考することは、《明治》文学そのものへの関心となり得るわけで、こうなるともはやそれは理屈ではないのである。
 ただ奇妙なことに、私自身、何故か漱石の『吾輩は猫である』にあまり好奇心を抱かなかった。先述した新潮文庫のそれにも手が伸びておらず、根本的に私の中で『猫』 を忌避していたと言うしかないのだが、その理由についてはよく分からない。とても不思議なことである。
 一昨年、ようやく重い腰を上げて、なんとか映画版を観た。
〈市川崑監督の『吾輩は猫である』を観た。映画のフォルムでこれだけ軽妙洒脱なのは、役者の品がいいせいなのか、市川崑と漱石の相性が良いからなのか〉
(自身のツイッター内ツイートより)
 それがまた非常に面白かった。漱石の文学的世界をよく表現していて、誠に軽妙洒脱だったのだ。この1975年公開の『猫』の他、市川崑は1955年に『こころ』、さらに遺作となった『ユメ十夜』(第二夜を担当)と漱石作品を手掛けており、市川監督が漱石フリークであることは疑いの余地はない。
 ところで、時に岩波書店PR誌『図書』の2012年10月号を読んで、筒井泉氏の「漱石の『猫』とホートン」のエッセイが興味深かった。
 筒井氏の肩書きは“高エネルギー加速器研究機構・物理学”とあるが、ここでは『吾輩は猫である』の中でユーモアに展開される「首縊りの力学」の話題について論述されていた。学者サミュエル・ホートンの「力学的、生理学的な観点から見た絞首刑について」を漱石がモチーフとして工作し、寒月、迷亭、主人らの会話を面白可笑しくしている箇所である。
 筒井氏が指摘した事柄を要約してみる。
 「首縊りの力学」(的考察)を論文にしたホートンはアイルランド出身で、ダーウィンの進化論否定の考察材料として、ある種の企図により、アイルランド人特有の滑稽な情趣でもって“首縊り”すなわち絞首刑を物理学的、そして自然神学的な側面で説いた。寺田寅彦を通じてこの論文を知った漱石は、『猫』の中にこの風変わりな論文を、登場人物らの話題という形で取り入れた。
 端的に言えば、こうした風変わりな論文を面白くとらえ、その嗅覚に鋭く反応した漱石は、サミュエル・ホートンのそれと同性の感覚を持ち合わせていたということになる。ああいった“奇矯”なモチーフに、漱石が共鳴したのだ。つまり漱石文学には、アイルランド人的な匂いのする思考性と汎用性が張り巡らされていて、筒井氏はそれを“文学的奇矯さ”と表している。
 私が「漱石の『猫』とホートン」を読んで思い出したのは、横溝正史の探偵小説に『病院坂の首縊りの家』というのがあり、市川崑監督もこれを映画化している、ということだ。
 それは市川崑映画の運命的な“首縊り”連関のようなもので、まず何より、横溝正史も『猫』の“首縊り”に反応した――漱石文学の奇矯さに反応した――可能性が高いが、市川監督が『猫』を手掛けた1975年以降に、彼の生涯随一の代表作が連なる金田一耕助シリーズが始まる。『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『獄門島』『女王蜂』そして『病院坂の首縊りの家』。これらの作品には、まさに市川崑らしいユーモア、すなわち根底にあるアイルランド人特有の情趣が多分に含有しており、それは結局、漱石文学のユーモア、洒脱にも通ずるものであろう。
 依然として私が何故、『猫』を避けてきたのかよく分からないが、「首縊りの力学」がきっかけとなって、いよいよようやく、『猫』の読書に鼻息が荒くなる日が近づきつつあると思うのだが、果たしてどうなるか。

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