【『洋酒天国』第29号】 |
花散らしの風とはよく言ったもので、もうすっかり暖かくなった昼下がり、桜並木のたもとで桜が散り、自動車が通るたびにさらに散った花びらが舞う、という中を、顔に花びらを当てながらのんきに通り過ぎたりして、誠にこの時期はうららかな風情がある。
そんな春風の夜、小冊子『洋酒天国』(洋酒天国社)を気儘に一冊選んで開いてみた。もちろん洋酒を入れたグラスを片手に。第29号(昭和33年9月刊)の表紙の、白い背広を着たダンサーは、歌手で俳優のジェリー伊藤さんだそうである。
表紙をめくると、
《酒のない食卓は 片目の美女である フランス俚諺》
と、ポイントの大きな文字で記してあった。咄嗟に瞑想に耽る。
さてこのフランス俚諺とは。
調べてみると、これはブリア=サヴァランの《チーズのない食卓は――》なのだが、『洋酒天国』としては中等なジョークである。ではサヴァランを追っかけてみるかと思ったのだが、調べのついでに発見した、海月書林さんのホームページでの『洋酒天国』の解説と話が酷似するような気がするので、ここはぴしゃりとやめておく。
第29号の冒頭のエッセイ。これが本題。崎川範行氏(理学博士)の「スコッチの味」。崎川氏がグラスゴーのレストランで、“レモンスカッシ”にスコッチを入れてくれと注文したところ、隣にいたスコットランド人が「レモンスカッシにスコッチを入れるなんて飛んでもない話、それは金を海へ投げ込むようなものだ」と言ったという。イギリス人は案外ビールだのシェリーだの葡萄酒などを飲む人が多いとも書いている。尤もそれは昭和30年代の頃の話で、今のイギリスでは酒で何が好まれるのか、私はよく知らない。
さらに崎川氏は、サントリー十二年クラス以上と本場のスコッチとが容易に味わい分けることができない、ジョニ赤と黒のどちらが美味いかまったく分からない、とも書いている。味は分からないが、崎川氏が方々で飲んだくれている様子はよく分かる。
話は変わるが、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画で『北北西に進路を取れ』という面白いのがある。主人公のアメリカ紳士、ロジャー・ソーンヒル(ケーリー・グラント)は何者かに誘拐され、強引にバーボンを飲まされる。そして完全に泥酔状態になったロジャーは、無理矢理車の運転席に座らされ、飲酒運転による転落死に見せかけられて殺されそうになる。なんとか九死に一生を得たロジャーだったが、そこからとんでもない事件に巻き込まれていく。
この映画を私は中学生の頃に初めて観て、アメリカのバーボンという酒の強烈なる印象を覚えた。
かつての時代、アメリカではある意味において、バーボンに対して舶来のスコッチは手強い競争相手であった。言わばアメリカの歴史は、酒と茶とコーヒーで始まったと言っても過言ではない。
私は『北北西に進路を取れ』というタイトルを耳にすると、瞬時にしてあのバーボンのシーンが脳裏に甦る。
ちなみに『北北西に進路を取れ』には、名優ジェームズ・メイソンが助演していて映画に箔を付けている。確かこの映画を観る以前、イギリスの『邪魔者は殺せ』(キャロル・リード監督)という映画を何度か観たことがあった。その映画の主役がジェームズ・メイソンで、この頃の私は外国の男優としては、ジェームズ・メイソンだとかジェームズ・スチュアートだとか、スティーブ・マックイーンあたりが好きだったのかも知れない。
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【バーボン・ウイスキー“EARLY TIMES”】 |
こんなことを考えながら、また崎川氏の「スコッチの味」を再読したりしながら、普及酒“EARLY TIMES”を口にした。バーボンなどほとんど飲んだためしがない。
昔から噂に聞く、「バーボンはまずい」という流言が、一瞬、頭の中を掠めた。私の大好きな“JACK DANIEL’S OLD No.7”も同じアルコール度数40度なのだが、“EARLY TIMES”はどちらかというと日本の焼酎に近い。それも九州あたりの。しかし、一口二口と進めるうちに、次第にアルコール臭さにも慣れてきて、不思議と飲めるようになる。結局、コクの深みの点で“JACK DANIEL’S OLD No.7”とは違うようである。
ただしやはり、映画のあのシーンを思い出してしまう。このバーボンを、自主的にちびちび飲み耽るのではなく、ストレートで強引に飲まされるという拷問的な体罰を想像したりすると、身も凍りつくというか間もない急死を予感してしまうのである。日本酒がアイテムでは絶対にこうはいかない。こうはいかない、というのは、映画として画にならないという意味だ。
ということで、これから5月にかけて、夜の湿った空気から漂うあちらこちらの花の香りを嗅ぎ分けながら、私は開けてしまった“EARLY TIMES”をちびちびやることにする。どうもストレートはきついから、コンビニでも行って「レモンスカッシください」と言ってみようか。果たしてレジの人が笑いもせずにそれを持ってきてくれるかどうか――。
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