漱石本―津田青楓装幀の画

【大正6年の『色鳥』。津田青楓装幀】
 今年の7月末、新潮文庫版の漱石『こころ』が、累計発行部数700万部を突破した、という。同書の1952年刊行以来、186刷701万500部を超え、新潮文庫としては歴代1位の発行部数となったらしい。
 朝日新聞朝刊に『こゝろ』(『こころ』)が掲載された直後、私はそれを読み始めようかと思ったが、やめた。好きな本は自分のペースで読み進めたいし、そのペースも一定ではなく、私の場合著しく淀む。ましてや手元に新潮文庫版の『こころ』があれば、新聞を読み進める必要はない。しかしながら、100年ぶりの復刻連載、その“漱石祭り”的な雰囲気としては、十分に汲み取っているつもりである。
 私が学生時代に買った漱石新潮文庫版は、津田青楓装幀画のカバーであった(当ブログ「漱石と読書感想文」参照)。布目に花文様の装飾画となっており、背景の朱色と花文様の茶褐色の刷りずれ、というか滲み具合というか、いわゆるアールヌーヴォー調の風情に軽やかさがあって個人的には印象が強かった。
 私は子供の頃から画を描くことが苦手で、画を描いてもほとんど褒められたことがない。特に苦手だったのが、版画で、小学校の図工で時折実習させられた木版画の授業は、頗るいやで退屈であった。薄っぺらいベニヤ板(?)に彫刻刀を当て、ギコギコと削る音がたまらなく、鳥肌が立ったものである。
 ところが他人の描いた版画などを見ると、感心したり美しいと思ってしまう。
 あの津田青楓の装幀画カバーもそうである。色合いが華やいでいながら、日本人らしい慎ましさと奥ゆかしさが感じられる。――なんとなくあちらこちらを探してみたところ、あの装幀画カバーのオリジナルの、本を入手することができた。漱石作品を寄せ集めた、『色鳥』(新潮社・大正6年第六版)だ。
《『色鳥』一巻は、夏目漱石先生の全作中から、その最も代表的なものを選び、是を歴史的に編纂したものである。本書を一讀すれば、先生が作風の眞膸に味到することが出来るであらう》
(『色鳥』編者記より引用)
【本の中の大きなシミ】
 それなりに格調は高いが、さすがに古くて本自体が痛々しく、青楓の装幀も色褪せてしまっている(これはこれで味わいがあるが)。中を開けて巻頭の「倫敦消息」などには大きなシミの痕が残っている。裁断はいい加減で、上部はきちんと揃っているが、下部は紙の切れ目がまったく揃っていない。本文はむしろ大きな字で読みやすく、書体もなかなか美しい。
 これで「永日小品」だとか「二百十日」を読んでみたのだが、とても面白い体験であった。漱石の没年は大正5年であるから、この本の初版刊行の頃にはまだ存命であり、活字から伝わってくる作品の表現一つ一つに、生きている漱石の念力が込められているかのような錯覚を起こした。
 考えてみれば先の編集記の一文などは、“新潮文庫の100冊”のコンセプトのようなもので、和洋の代表的な文学を選んで、歴史的に編纂したもの、その真髄に味到できうるもの、ということができる。新潮社の文庫訓とでも言いたい。
 文庫本で味を占めたならば、同じ作品を古い初版本などで読み直す、というのがいい。夏目漱石の作品は、特にそれが奥深く堪能できるから、いつになっても読み応えがある。

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