市民の生き方をリノベーションする

【8月27日付朝日新聞朝刊より】

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 家事に一息ついて飲むウイスキーが美味い。風呂上がりなら尚のこと。つい昨夜、この数ヵ月間ちびりちびりと嗜んでいたスコッチ・ウイスキーのラフロイグ(Laphroaig)の10年物を、ようやく空けた。空けてしまって何か寂しいと思った。この寂しさは、他の酒のそれとは違って言葉では言い表せない慈しみがある。すぐにでもまた新しいラフロイグを買えばいい、と思ったが、それもまた情緒に欠けるような気がして躊躇する。しばらく間を置こう。酒の深い味わいのためには、拙速な心持ちは禁忌である。
 そのラフロイグのことを書いた今年の3月(当ブログ「ラフロイグのスコッチ」)、ある英国の映画のことに触れた。“like a dog with a bone”。イングランドのニューカッスルが舞台の――。失業した男の、貧困と労働問題がテーマだったその映画は、(敢えてその時は伏せていたけれど)ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(I,Daniel Blake)という作品で、第69回カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞している。そして再び、忘れもしなかった“ニューカッスル”の地名を見たのは、先日の朝日新聞朝刊の1面である。その記事も、ニューカッスルのある光景について書かれてあったのだ。映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』と、新聞記事の“ニューカッスル”が結びつけているものは、administrationすなわち「行政」であった。
 新聞の1面の記事は、“平成”をテーマにしたもので、「次代へ渡し損ねたバトン」という見出しがつけられていた(編集委員・真鍋弘樹)。ある平成生まれの大学生が5年前、ニューカッスルの市内の図書館に訪れたとき、ある同年代の光景に凍り付いたのだという。そこでは地元の若者達が、議会という形で市の政策を議論していたのだ。日本ではなかなか見られない若者の光景が、向こうでは当たり前のようにみられる。若者としての意識のずれ以上に、何か深刻な差を感じた。《俺たち、まずい。日本やばいって》――。
 俺たち、まずい。日本やばいって。その彼=竹下修平さんの言葉は、記事の中においてもずば抜けてリアリティがあり、おそらく読者の心にグサリときた言葉であろう。同感や共感といった意識を飛び越え、読んだ私自身、アラサー世代が何もいじろうとしなかった旧態依然の日本の政治の不具合、不条理のようなもののツケが、すべて平成世代にのしかかってしまっているのではないかという恐怖すら感じた。なんてことをしてきたのだと。
 
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 あの映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、失業した男の孤軍奮闘ぶりが描かれているが、イングランドのニューカッスルでは既に、若者達が市の議会や行政に携わる仕組みがある、というところに、竹下さんの驚きがあったのだろう。同時に、日本にはその仕組みがないという危機感。とどのつまり、日本の政治は遅れている、若者達は、何もしていないじゃないかと――。
 竹下さんは帰国して動いた。愛知県新城市に住む彼とその仲間達の活動によって、新城市の画期的な取り組みが始まった。――16歳から29歳までの若者を公募して運営する「若者議会」。毎年市の予算のうちの1千万円がその「若者議会」に割り当てられ、市の事業が決められていく。これは模擬議会などではない、正真正銘、若者達による議会である。
 
 実際に私は新城市のホームページにアクセスしてみて、その「若者議会」の中身を閲覧した。確かに本当に、いろいろな事業が若者達によって展開されていてびっくりしたのだが、中でも注目したのは、「図書館リノベーション事業」である。これまでのような行政と議会の政治家達が通り一遍で決めてしまうリノベーションではなく、本当に使う側の、いわゆる市民が自分たち市民のために、それを「愛される図書館」にするためのリノベーションが議論されていく、といった筋道が見え、私はたいへん感心した。たとえ家から遠くてもついつい行きたくなるような図書館にするにはどうすればいいか、とか、実際に図書館はどのように利用されていて、どこをどう改善すればもっと使い勝手のいい「愛される図書館」になるか、といった話し合いが真剣になされ、おそらくこの市ではこの先、具体的に地域の図書館がリノベーションされていくのだろう。若者達の誠実で力強い活動ぶりに、ある種のうらやましささえ感じてしまう。
 
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 つまり、そうしてうらやんでいるだけでは駄目なのだということを、彼らは教えてくれているのだ。「される」のではなく、「していく」ということ。市民は政治の傍観者であってはならないのだと。そもそも新城市は、民間研究機関による「消滅可能性都市」の発表で、愛知県内で唯一指名された市だそうだ。人口が減り、行政が維持できないという危機感。これは誰にとっても他人事ではない。ならば若い世代が軸となって、政治の一部を任せてしまってもいいのではないか。
 
 実際のところ、その新聞記事の見出しは「次代へ渡し損ねたバトン」という少々丁寧で身構えた言葉になっているが、本音はやはり、《日本、やばい》である。これは強烈かつ深刻な言葉だ。まずは自分の住んでいる町の行政が、どんな状態となっているか。そしてそこではどんなことを取り組み、どんなことができていないのか、チェックすることから始めたい。
 子ども達には、自分たちの市が配布する広報紙なりを、絵本のようにして親が読み聞かせること。それを日常の中で当然のようにおこなうこと。町とは何か、親も勉強し、子も学んでいく生活。日々、自分たちの生活をリノベーションしていく感覚を共に身につける。
 いかなる市民も、「学びの精神」で身近な行政と向き合える日本でありたい。そういうふうに生活の「豊かさ」の意味を考え直し、自らを変えていく市民になりたい。ウイスキーの飲み方という点においても、ただ飲んで消費していくのではない、ふくよかな生活の足しになるようでなければ、駄目なのである。

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