伴田良輔の「スクラッチ感覚」

【伴田良輔著『奇妙な本棚』より「スクラッチ感覚」】
 個人的な創作上の都合で、私は、90年代に自身が嗜好共有した《サブ・カルチャー》のたぐいを洗いざらい回想していきたいという目的があって、文学に限らずアートの分野における影響という視点で、一つのアート作品=フォトブックを思い出すに至った。マドンナ(Madonna)の『SEX』である。これはアートのフォトブックであり、本という形態そのものがブック・アートにもなっている。このマドンナの『SEX』が世界的に混乱・騒乱・狂乱のニュースをふりまいたのは1992年10月前後のことで、その時私はまだ20歳であった。
 その前の高校2年(1989年)の春、ステファン・ブレイなどのプロデューサーによるマドンナの4枚目のアルバム『Like a Prayer』が発売され、私はすっかりいかれていた。1曲目の「Like a Prayer」におけるアンドレ・クラウチ(Andrae Crouch)の聖歌隊の掛け合いは素晴らしかったし、プリンスと共作した「Love Song」、それから、尺が2分少々しかないラストのボーナス・トラック的な要素の濃い11曲目「Act of Contrition」は、そのリバース・サウンドの奇抜さとマドンナのとてつもなく激しい衝撃的なシャウトに、脳がぶっ飛んだ。それでいて私がいちばん好きな曲は、「Till Death Do Us Part」。一瞬にしてマドンナが好きになり、一瞬にしてマドンナが恐ろしい存在にも感じられた。
 日本盤のCDに封入されていたライナーノーツの隅っこには、小さな枠で記された「AIDS(エイズ)に関する事実」という文章があった。その中で、《AIDSは感染者と膣あるいは肛門による性交渉によってうつる可能性があります》とか、《コンドーム装着という簡単な行為が、正しく性交渉の度に行われていれば、命を救うことになるのです》とか、《AIDSはパーティではありません》などとあって、正直高校生だった私には、あまりにも唐突で消化しきれない、まるでティーンエイジャーが白昼の酒宴にでも巻き込まれてしまったかのような、とてつもなく別世界の出来事のように思われ、愕然としてしまったのを憶えている。確かにこの時、あのフォトブックに至るようなマドンナの強烈なるエモーションの予感は、あった。
 ――まったくこうしたことを今頃になって思い出したのは、伴田良輔氏の本を不用意に自宅の書棚から何気なく手に取ったせいである。ただしこれが結果として、《サブ・カルチャー》の回想譚として大いに利潤を得たわけだが、ここではいったん、この稿の本題をマドンナのそのフォトブックから伴田氏の本に移させていただく。
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 伴田氏の本とは、『奇妙な本棚』(芸文社・1993年刊)のことである(昨年、マーティン・ムッカッチの作品について述べた当ブログ「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」参照のこと)。その本の中で伴田氏は、「スクラッチ感覚」というタイトルでマドンナのフォトブック『SEX』について述べている。私はこれを読んだのをきっかけに、マドンナらが画策した一つのアート作品の世界観を堪能することができたのだった。
 『奇妙な本棚』は1993年6月発行の本で、「スクラッチ感覚」は書き下ろしではなく、『週刊現代』初出。詳しい年月日は不明。この『週刊現代』所収の原稿は、マドンナのフォトブック発売からどれほどして書かれたものか定かではない。が、文章の冒頭で、《予想どおりマドンナによってタブー、あるいは変態と呼ばれる行為のひととおりが演じられている。ボンデージ、レズビアン、乱交、オナニー、ストリーキング、そして獣姦……》と生乾きの言葉で書かれていることから、フォトブック発売の噂を聞きつけ、ある程度期待して妄想を膨らまし、いざ手元に届けられた『SEX』を見開いて、かなり早いタッチで書かれた原稿であろうことが想像される。
 膨らんだ妄想が一気に萎んだとまでは言えないが、伴田氏は、ああいった行為を旧時代のセクシャルな蛮行ととらえ、それを敢えて挑発するように演じていると、述べる。また、ああいった性的蛮行のフォトジェニックの極致をべらぼうに意識したパフォーマンスが、“悪趣味なパロティ”と揶揄されることを承知の上でマドンナは、エイズ問題に絡めた性的保守主義傾向のスノッブに対するアジテーションをおこなっているのではないかとも述べており、かなり冷静な態度であのフォトブックを覗いては閉じた、ことが窺える。
【奇抜なアクションで煽動するマドンナのフォトブック『SEX』】
 私も「スクラッチ感覚」を読んだのをきっかけに、『SEX』の日本版(出版は同朋舎)を開いて見た。日本版は残念ながら、一部黒塗り加工でモデルらの陰部を秘した箇所がある(マドンナのヘアは無修正)。しかし、ほぼオリジナルの“原形”は整ったままであり、今回、さして“オリジナル版”を入手する必要はないと思われた。
 マドンナを主人公とした非日常のセクシュアルな“パーティ”のすべては、フォトブックのための、「作られたパフォーマンス」=虚構であり、彼女の露骨な性的行為のドキュメントを活写したわけではない。それでも全体がざらざらとして荒々しく刺戟的に感じられるのは、そのボンデージから獣姦に及ぶ多種多様な“パーティ”の膨大なカットと、《乱雑》を敢えて装った手描き文字とのコラージュであったり、大胆な彩色やテクニカルな特殊効果を施したフォト・アートの印象が、あまりにも高圧的で込み入っていて度が過ぎているからであり、どこからどこまでが卑猥と感じるかは、個人差があるだろう。いずれにせよ、全体としては、アート・ディレクターのファビアン・バロン(Fabien Baron)のセンスが功を奏している。
 これぞまさしく伴田氏の言う、“スクラッチ感覚”なるアートの絶好の表出なのだとも私は思った。こういった性的パフォーマンスである一定の評価が得られる、言わばマドンナのライバルと称せられるのは、もう一人、イタリアのポルノ女優から国会議員に転身したチチョリーナ(Cicciolina/Elena Anna Staller)であるとさえ伴田氏は述べている。チチョリーナの場合、ファンタジーの範疇を超えた唯一のアーティストであると、伴田氏の皮肉か真剣か判別のつかない内情の昂揚が感じられ、私もそれにいったんは賛成票を投じるしかない。
 次回はもう少し、マドンナの『SEX』の深いところを堪能して論述してみたいと思う。

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