ティーンエイジャーはなぜ問題行動を起こすのか

 
 
 
【ナショジオより。蛍光塗料を塗ったくって踊る若者達】
 私は10年ほど前にその数年間、余程の理由もなく気晴らしに――それもかなり熱っぽく『ナショナル ジオグラフィック』(NATIONAL GEOGRAPHIC)の日本版(日経ナショナル ジオグラフィック社)を定期購読していた。通称“ナショジオ”は知っての通り、ネイチャー&サイエンス系の月刊誌である。子どもから大人まで、購読者の年齢層は幅広い。何と言っても“ナショジオ”は、表紙から中身から、視覚中枢を圧倒するかのようなフォトグラフィックの雨嵐で、構図的な美や色彩の艶やかさに魅了され、私はその頃、この月刊誌のファンだったのだ。
 そうしたふくよかな書物の残滓は、私の手の中でかろうじてあった。購読していた当時の本は今や、“2011年10月号”の1冊しか残っていなかった。その号の表紙のイラストはサム・ハンドレー氏で、水彩絵の具を丸一日撒き散らした、らしい。眼に焼き付いてしまうくらい、印象的な表紙である。
 
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【『ナショナル ジオグラフィック日本版』2011年10月号】
 この号の特集記事「ティーンズの脳の驚異」が、斬新なサイエンス・フラッグとしてたいへん読み応えがあったのだった。内容は、「思春期の若者は、なぜ厄介な問題行動を起こすのか」がテーマである。ちなみに表紙の見出しは、「解明されるティーンズの脳」となっていた。“ナショジオ”日本版の、本の中身における各種標題は、このように厳密な標題にこだわっていない。したがって、どの標題がどの記事を指しているのか、少々分かりづらいことがある。
 ともかく、まずは本当のことを言おう――。
 私は当時(2011年9月)、これをまったく読んでいなかったのである。この雑誌が書棚の片隅に未開封の“ポリ袋状態”で差し込まれたまま、およそ8年間――いっさい手を触れることなく眠っていたわけである。本を開いたのはごく最近のことだ。そうして記事の「ティーンズの脳の驚異」を読んだら、思いがけずこのテーマへの関心の度合いが高まったのだった。
 
 この特集記事のフォトグラフ――撮影場所はほぼすべてテキサス州のオースティン――だけを見ていっても、そのあざやかさに思わず引き込まれてしまう。フォトグラファーは1987年生まれのアメリカ・フロリダ州出身、ビジュアル・デザイナーであるキトラ・カハナ(Kitra Cahana)氏。彼女のサイトに掲載してあったアートワークで、“Still Man”が私は好きだ(おそらくその被写体の男だか女だかは、“揺れていた”に違いない。二重露光の写真技術を使った印象的な作品である)。
 「ティーンズの脳の驚異」の文章の方は、サイエンス・ライターのデビッド・ドブズ(David Dobbs)氏によるもの。以下、その内容をよく表した特集記事の小見出し。
《気まぐれで衝動的、平気で危ないことをする。ティーンエージャーの行動は、はるか昔から親たちを悩ませてきた。だが、進化の目で見れば、未熟に思える言動も将来、充実した人生を送るために欠かせないことのようだ》
(『ナショナル ジオグラフィック 日本語版』「ティーンズの脳の驚異」2011年10月号より引用)
 
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 「思春期の若者は、なぜ厄介な問題行動を起こすのか」――。ここで指している若者特有の「問題行動」を私なりに定義してみると、こんなところだろうか。
  • 親に反抗する。
  • 学校から呼び出されることが多い。
  • 事故でケガをしたり、物をなくしたりする。
  • 約束した時間に来なかったりする。
  • 起きるのがめっぽう遅い。
  • 不規則な生活をして体調を悪くしたり、酒を飲んで人に迷惑を掛けたりする。
  • 急に怒り出して癇癪になる。
  • 急に元気がなくなったり、仲間と突然別れたりする。
  • 意味もなく旅に出る。
  • 泣いたり、喚いたりが頻繁にある――。
 
【舌にピアスを開けてしまった若い女性】
 親からすれば一喜一憂どころではなく、百憂千憂であろう。大人たちは子どものそれになんとか対応し、白髪と顔の皺を一本ずつ増やしていくはめになる。子どもは大人の側の事情を、まったく理解しようとはしていない。
 こうした若者に対しては、まるで“善い部分”が無いような印象を与えかねないのだけれど、“若気の至り”という言葉が示しているように、若いうちにはそういうことがしばしばあるのだということを、当の大人たちは皆、よく知っている。そうして翻って自分の過去のうちの、若かった頃の苦い経験譚を想念として呼び起こしてしまう。だから、目の前で子どもを叱るに叱れないのである。
 
 ここで、文中の科学的な話をしてみようではないか。
 「なぜ若者は厄介な問題行動を起こすのか」の大きな理由としては、思春期の頃、若者の脳はたいへん活発に変化(発達)するからなのだという。結論を先に述べると、その時期の脳の働きというのは、「リスク」を考慮せず、「社会的報酬」を重視して決断したり行動する――ようなのだ。
 20世紀末に脳の画像化技術が開発され、脳の構造がだいぶ解明されてきたという。
 米国立衛生研究所が実施した調査によると、若者の脳は、12歳から25歳にかけて脳内の処理速度を上げる変化がみられるらしい。ニューロン(神経細胞)が隣のニューロンに信号を送る「軸索」(じくさく)というものが、「髄鞘」(ずいしょう)という脂肪質の絶縁体で徐々に包まれ、伝達速度が飛躍的に上がる。「軸索」から信号を受け取る「樹状突起」の枝分かれも発達し、脳内は様々な箇所で変化する。この時期、シナプスの「剪定」(せんてい)で大脳皮質が薄くなって効率が高まり、脳全体が処理速度を大幅に上げるのである。
 書いていて的確な言葉となっているかどうか不安になる。難解な専門用語が飛び交い、これ以上書くとボロが出てあまり適切とは言えない説明になってきそうなので、難しい科学的な説明はここまでとして差し控える。
 けれども、ともかく思春期の頃に脳内は活発に変化し、より複雑でしっかりとした行動が取れるようになっていくということは、どうやらそうらしい。いかんせんその時期においてはまだ途上――発達の未完の状態――であり、脳の変化の盛んな頃ではぎこちなく働いてしまうのだという。
 そういったことから、まだ若い頃は、自分の仕事の成果を精査したり、自分でミスを発見したり、物事を順序立てて計画したり、集中力を持続させようとするための脳内の領域が、あまり使われないらしいのである。
 
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 ところで、キトラ・カハナ氏が撮影したフォトグラフでは、例えば、高校のアメフト選手の若者が、ケガのリスクを冒して試合に出場した話だとか、これを見るとちょっと大人ではできそうもない、“蛍光塗料”のペンキを体に浴びて踊るパーティの話だとか、あるいは自分の舌の真ん中にピアスをしてしまった女の子のドジな話、さらには危険を顧みずマーシャルアーツ(格闘技)に夢中になる若者の話、また、牧場を営む父親を師にして、野生シカのハンティングを学ぶ若者の話(とかく若者は仲間同士で狩りに行きたがるのを暗に抑制し、経験のある大人から狩猟の知恵を学ぶ)などが、それぞれのキャプションにあって、こうした“若者らしい”行動が、やはり分別の付いた大人とは少し違うことを意識させられた。
 脳の発達の途上におけるその“若者らしい”行動が、人類を救った――といった驚くべき要旨も、デビッド・ドブズ氏の文中には垣間見られた。
 
【若者は危険な格闘技に夢中になりやすい。それはなぜか?】
 若者の行動は、「リスク」を回避するよりも、仲間に自分のいいところを見せたり評価されたいといった「社会的報酬」を望む傾向が強いのだという。
 そういえば若者は、新しい“モノゴト”が好き。新しい“モノゴト”に好奇心を抱き、仲間に対し、自分とその新しい“モノゴト”との強烈な関係性をアピールしたくなる。それには、自ら新しい“モノゴト”に近づいていくという相応のリスクがともなうが、省みない。
 ちなみに若者は、政治に関してはそれを古臭いものとして受け取り、関心がどうも及ばないようだ。実際の政治は、本質的には見えざる最も新しい“モノゴト”なのに、どうやら若者の領域ではまだそれを、認識できないのかも知れない――と書いてしまったが、はて、これは今の日本の若者だけの話ではないか、とも思えた。尤もこれは、私の個人的な疑問の余地の見解に過ぎないので、差し引いてもらって構わない。
 
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 閑話休題。人類の進歩の過程においては、そのチャレンジャーとしての若者の素質が功を奏したと言えよう。居住環境を森林から平地へと移行し、危険に満ちた新しい環境に順応するといった開拓者たりうる叡智の、祖先の若者が貢献したかに思える人類史があるようだ。
 そこでは若い脳の“未完”の働きが、最適な効果であったに違いない。言うなれば若さの品性とは、常に新しい領域のモノとコトに結び付いたもの――と称することができるかも知れない。仲間から評価されたいという強い観念こそが、リスクを冒す大きな要素であったのだから。
 未知なる新しいモノに触れ、新しいコトに挑戦したり体験したりし、仲間から相応の評価を得たいと考えること。つまり若者とは、自己の《野心》の代償的存在を指すのだろう。脚光を浴び、有名になり、大金を欲し、すこぶる出世欲があり、未知なる場所や僻地、極地などに行ってみたくなるといったうずうずした心持ち。それでいて日々、爆睡を得意とする。その発起が単なる願望にとどまらずに、行動に起こしがちなのが若者の特権であり、これらの行動のほとんどがリスクを考慮していないわけだから、大人からみると厄介な「問題行動」というように映ってしまうのであった。
 
 さて、気晴らしにサイエンスの醍醐味を味わったような気がした。じゅうぶんに想像を張り巡らしたつもりである。若者とは何ぞや? といった思念でなるほどそういうことだったのか、と合点する面も多々あった。
 若者に対する見方ががらりと変わった、というのは少し言い過ぎであろうか。書棚に埋もれていた古い一冊から、何か小さな知恵を授かったようにも思えるのだが。
 

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