映画『第三の男』

【キャロル・リード監督『第三の男』4Kデジタル修復版DVD】
 キャロル・リード(Carol Reed)という偉大なる監督の名も知らなかった中学生の頃、同監督の映画『邪魔者は殺せ』(じゃまものはけせ/“Odd Man Out”、1947年作品)をテレビ放映で鑑賞し、録画したビデオテープを何度も観、悲しく痛ましい主人公のジョニー役を演じた若きジェームズ・メイソンの演技に魅了――という思い出がある。すこぶるぞくぞくした映画であった。もうそれは35年も前の話で、たいへん古い話で恐縮なのだけれど、“映画狂”だった少年時代がとても懐かしい。
 その頃には既に、チャールズ・チャップリンだとかフレッド・アステアなどのモノクロームの名画はたっぷりと鑑賞していたので、特に英国のクラシックな映画作品を観ることに、なんのとっかかりもなく、むしろ海外の児童文学の如き面白さの中毒性があった。
 ただし、キャロル・リード監督の作品としては一般的に――当然ながら――1949年の『第三の男』(“The Third Man”)の方がはるかに有名だと思われる。そんなことは露程も知らずに、あの当時、『邪魔者は殺せ』にのめり込んでいたわけだ。私自身が『第三の男』の世界的な名声やら評判に気づいたのは、どういうわけだかだいぶ後年であり、おそらく二十歳を過ぎてもまだ、この映画の真価に触れていなかったのではないか。こうして振り返ると、『第三の男』を全く素通りしていたことに、“映画狂”の虚栄心が聞いて呆れる話である。
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 『第三の男』――。映画史上、最も映画らしく振る舞い、その真髄の希釈を無数の未来作品に付与した傑作中の傑作。監督キャロル・リード、主演はジョゼフ・コットン、アリダ・ヴァリ、オーソン・ウェルズ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー。
 この映画は1949年の英国アカデミー賞の作品賞を受賞し、同年の第3回カンヌ国際映画祭のグランプリも獲得。さらに1950年のアカデミー賞では撮影賞を受賞。日本での評価では、1952年のキネマ旬報ベスト・テンで外国映画第2位を獲得している――。ちなみに、52年のキネマ旬報ベスト・テンの日本映画部門の第1位は黒澤明監督の『生きる』であり、外国映画の第1位はチャールズ・チャップリン監督の『チャップリンの殺人狂時代』(“Monsieur Verdoux”)であった。さらに思い浮かぶエピソード――『チャップリンの殺人狂時代』の原案者云々におけるチャップリンとオーソン・ウェルズとの少々のいざこざ――については、ここでは触れないでおくことにする。
 さて、『第三の男』の本国イギリスの公開は、1949年9月である。日本国内の公開はだいぶ遅れて、3年後の1952年(昭和27年)の9月。この公開年のズレの謎については、幸いにも映画評論家の荻昌弘氏が、同映画の1976年リヴァイバル上映の際のパンフレット(編集者・水野晴郎)に記していて興味深い。荻氏の解説を要約すると、こういうことである。
 言わずもがな1949年(昭和24年)当時は、日本はまだ敗戦後の混乱期であり、GHQ占領下であった。したがって外国の映画がなかなか入ってこない状況だったのである。49年に本国で『第三の男』が公開され、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した――というニュースは国内に入ってきており、大衆の関心は高かったものの、作品自体はまだ観ることができなかった。
 進駐軍の放送で、あの高名なるアントン・カラスのツィターの名曲が、東京の街の一角に響き渡り、洋画ファンは『第三の男』のフィルムの到着を、今か今かと待ち焦がれてやきもきしたそうである。そしてそれがようやく実現したのは、サンフランシスコ講和の発効でGHQが廃止になった昭和27年、つまり3年後の1952年だったというわけだ。
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【DVDパッケージ裏面】
 日本ではそうして待ち焦がれた“外国映画”=舶来品だった『第三の男』。一方の戦勝国であるイギリスにおいて、この映画は、どのような香りを漂わせていたのだろうか。『第三の男』のDVDパッケージに明記してあった、作品解説を以下、引用しておく。
《第2次大戦終結直後のウィーン。アメリカ人ホリー・マーチンスは、友人ハリー・ライムに呼ばれてウィーンにやって来るが、ライムは過日、自動車事故で死んでいた。その葬儀で会った英軍の少佐からホリーは、最悪の密売人だったと言われる…。陰影深い映像と軽快なチターの調べ、そして緊迫感溢れる地下水道の追跡で知られる映画史上に輝く名作。イギリス映画の名匠キャロル・リードの代表作であると共に、俳優としてのオーソン・ウェルズの代表作でもある。アントン・カラスのチター曲は世界中でヒットし、映画音楽の定番となっている》
(『第三の男』4Kデジタル修復版DVDより引用)
 原作者のグレアム・グリーンは1904年のハートフォードシャー生まれで、監督のキャロル・リードより2歳年上である(リードはロンドン生まれ)。オックスフォード大学出身で、著名な雑誌の編集員となり、戦時中は情報局員として従事し、その傍ら、小説を書くようになった。
 『第三の男』の映画化の経緯は、ロンドン・フィルムの創始者でありプロデューサーのアレクサンダー・コルダ卿が絡んでいる。1947年、彼がグレアム・グリーンの短篇作「地下室の部屋」をリードに読ませたところ、リードは興味を示し、コルダ卿がグリーンに連絡をとって、食事に誘った。その後、リードとグリーンは親友となり、「地下室の部屋」を映画化。これがリード監督の『落ちた偶像』(“The Fallen Idol”)となった。さらにコルダ卿は新作の企画を進め、グリーンを分割占領されているウィーンに派遣。オリジナルのストーリーの執筆を依頼。これが原作「第三の男」となった。
 これはキャロル・リードとグレアム・グリーンにおける有名なエピソードであるが、グリーンはラスト・シーンをホリーとアンナのハッピーエンドにしたかったという(腕を組んで歩くという二人のショット)。ところが、リードがこれを猛烈に反対し、ああいうシーンとなった。原作者と監督という関係においては、たいへん好ましい関係である。
 オーストリアの首都ウィーンは当時、米英仏ソの4国に分割占領されていた。到着したばかりのホリーが最初に難渋したのも、言葉の壁であった。アメリカ人で大衆作家のホリーが、もともと多民族国家の都市であり共同占領下の生乾き状態のウィーンを訪れるというシチュエーション自体が、言わば未知なる俗に手探りで触れることになるわけだから、サスペンス・ストーリーにはもってこいの街である。ホリーが葬儀の場で会ったのは、英軍の少佐(国際警察のイギリス代表)だけではなく、美しく悄れたハリーの恋人アンナもまた、終始謎めいた国際人であった。やがてホリーはこのアンナという女性に惚れていくのも、しごく当然と言えば当然である。
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 ところで、DVDの解説にも述べられていたアントン・カラスのツィター曲は、あまりにも有名すぎて、語るに及ばない。聴けば、ああ、あの曲か――と誰もが分かる名曲中の名曲である。日本で最も知られているこの曲の流用例は、何と言っても、サッポロビールの“ヱビス”のコマーシャルであろう。このコマーシャル・シリーズにおけるあの曲の印象が相当、年月をかけて日本人に擦り込まれてしまっているから、『第三の男』のハリー・ライムを思い浮かべる人の方が、今となってはだいぶ少ないのではないだろうか。
 映画そのものをオマージュとして流用した例については、もはや枚挙に暇がない。私個人がここ最近観た映画では、山田洋次監督の『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(シリーズ第41作、1989年)で、ロケ地ウィーンの夜の街の雰囲気を『第三の男』の名シーンと見立てたパロディがあったりして、まさにウィーン=『第三の男』としてオマージュされていた。ただし、私は、この寅さんの第41作を高校生の時に観たはずである。が、『第三の男』について注意深く興味を示した自身の記憶は、どういうわけか、全くない――。
 キャロル・リードが『第三の男』の映像芸術に託した、いわゆる《陰影深い映像》であるとか、最も有名な地下水道の追跡シーンについてのディテールを、ここでたらたらと書き出していたら、それこそ長文となってしまうのでやめておく。
 強いて言えば、この映画の強烈な印象として誰しもが刻み込まれるに違いないのは、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の顔が初めてスクリーンに映し出される1ショットであり、何と言っても、アンナを演じた女優アリダ・ヴァリ(Alida Valli)の美貌と憂いの堂々たる風格、存在感そのものであろう。
 アリダ・ヴァリ…。私はおそらく、中学生の時に観たはずなのだ。彼女が主演したアンリ・コルピ監督のフランス映画『かくも長き不在』(“Une aussi longue absence”、1961年作品)を。しかし、その面影を記憶の中から呼び起こすことは、もはや不可能である。いずれあらためて、この『かくも長き不在』も鑑賞し直してみたいと思っているが、アリダ・ヴァリの美貌の印象は当然ながら、ペパーミントの如く強烈なはずである。
 イタリア出身の女優アリダ・ヴァリの来歴は、なかなか日本人に疎いところがあるので、敢えて先述のパンフレットに記してあったのを以下、引用しておきたい。
《ハリーの恋人の踊り子役で登場し、個性的で固い表情に心の強さをうかがわせる印象的な演技をしているヴァリは1921年5月イタリアのトリエステ生まれ。幼時から評判になる程の美貌で15才の時、映画実験センターの演劇科に入り本格的女優を志した。すぐにプロデューサーの目にとまり36年デビュー。38年にはヴェニス映画祭で最優秀女優賞を与えられたが、ファシズム映画に出るのを嫌い一時引退。47年ヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』で大プロデューサー、セルズニックと契約してアメリカ映画に出、さらにその一環としてイギリスに渡り『第三の男』に出演。一躍世界に知られる大スターとなった。作品数こそ少ないがその貫禄と演技力は他を圧倒している。44年にピアニストのオスカーデ・メヨと結婚、二児がある。主な作品『奇蹟は一度しか起らない』、『夏の嵐』、『さすらい』、『海の壁』、『かくも長き不在』、『アポロンの地獄』、『高校教師』など》
(『第三の男』1976年リヴァイバル上映のパンフレットより引用)

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