トリュフォーの『大人は判ってくれない』

【フランソワ・トリュフォー監督の映画『大人は判ってくれない』DVD】
 映画狂の必須アイテムである、フランソワ・トリュフォー著『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)が、片田舎の地元の、しかも自宅から5分もかからない所にある小さな書店で手に入ったのは、私が高校生の時のことである。それは今から33年くらい前のことであり、1988年から90年のうちのいずれかの時期――ということになる。
 ちょっとばかり大袈裟に述べれば、そういう新宿の紀伊國屋書店だとか東京・丸の内の丸善でしか買えないような映画関連の専門書が、とある地方の片田舎の、家からわずか5分ほど先の書店に陳列されていたことの驚きと《奇跡》の有り様は、あながちそれ自体の《奇跡》というよりも、言わばその時代の社会的背景として当然の帰結であった可能性の方が高く、片田舎でさえもその時代において、頑なに通念として遵守されていた日本国内のある種のliteracyが顕在化していたということなのかも知れない。
 この表現はもう少し大袈裟になって、事実と相違が生じる恐れがあるけれども、今、我が町に“ヒッチコック”だとか“トリュフォー”といった映画人の名が、書店もしくは図書館で閲覧できるような教養的文化の片鱗は、一分も見当たらない――のではないか。これが日本で起きている終末的な現実であろう、精神的な貧困が物理的貧困を生み、その物理的貧困が精神的貧困に連鎖する。確かに物は溢れているが、文化的でないのである。相対的な文化の衰弱死という恐ろしい終末なのであり、大国化ではなく小国化へ向かっている現象なのだろう。

トリュフォーを知った私

 私が小学4年生か5年生の時に、りんたろう監督の映画『幻魔大戦』(1983年公開)を観ていなかったことは明らかな事実なので、高校生になるまで『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を知らなかったことになる。どういうことかというのは、『幻魔大戦』をじっくり観れば分かる。
 中学生の頃には、テレビ番組で「ヒッチコック劇場」というのをやっていて、それに伴ってヒッチコック監督の映画も好きであった。『サイコ』(“Psycho”)などは、もしかすると小学生の頃に観ていたかも知れない。それ以外では、『裏窓』(“Rear Window”)や『北北西に進路を取れ』(“North by Northwest”)が好きであった。
 そういう映画狂的好奇心が豊富だった私は、やがて高校生になり、当時3,800円だった『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を買い求めたのだけれど、この本は本当にすり切れるほどよく読んだ。そして、ここまでのこの本の思い出話は、あくまで私がトリュフォーという映画監督を知るきっかけの、前置きにすぎない。それまでに映画『華氏451』(“Fahrenheit 451”)を観て知っていたトリュフォーとはいったい何者なのか?――。高校生だった私はまだ何も、判然としていなかったのである。
 その本の中でヒッチコック監督に執拗に、演出や脚本の事柄、出演者のこと、又は撮影に関する裏話を訊きだして、自らも映画論としての注釈に介入したりしたフランソワ・トリュフォー(François Truffaut)監督の、1959年カンヌ映画祭監督大賞を受賞した映画『大人は判ってくれない』(“Les Quatre Cents Coups”)を私が観たのは、おそらく、20代になった90年代のことではないかと推測する。『華氏451』では全くと言っていいほど監督に対する興味はなかったが、この『大人は判ってくれない』を観た時に、ひどくトリュフォーとは何者なのか? ということを意識したように思う。むろん、あの本でヒッチコックに食い下がっていたトリュフォーの印象と二重写しで――という意味である。

アントワーヌ・ドワネルという少年

 あの映画で、何度となく主人公の少年が学校の先生に叱られるシーンがある。コミカルな場面として見れば、たいへん軽妙で面白い。ここにこそトリュフォーの映画的センスが多分に詰まっているとも言える。
 しかしながら、学校という場で、子ども達が笑顔をあまり見せることなく大人達に叱られ続けているという様相は、コミカルであるとばかり言っていられず、次第にどうしたものかとも思えてしまう。学校とは、それほど理不尽に過酷な所なのだろうか。
 いや確かに、古今東西、どこの学校の教師も、厳しい存在であった。トリュフォーは、自分の少年時代の目線から、教師という存在をあのように――少々滑稽さも含めてはいるが――描いているのである。フランスでは、特にああいったきつく叱る先生が多かったのだろうか。その点はよく分からないが、日本でも――少なくとも昭和の時代には――学校という教育の現場に、たいへん厳しい教師が“居られた”ことを、誰もが思い出すに違いない。
 そうした厳格な教師に対し、12歳の少年アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)は、只々隷属的に従うしかなかった。ドワネルはそれほど“落ちこぼれ”=“悪ガキ”だったのだろうか。教師は執拗に、ドワネルに罰を与えている。ドワネルは顔をこわばらせ、落胆と怒りの感情を圧し殺しながら、与えられた罰としての仕事をこなす。さらなる強い罰が予想されるから、直接的には自身の反抗を表そうとはしないが、教師に対してとてつもなく嫌悪を抱いているのは確かであり、一面として喜劇的な関係に見えたとしても、そこに深い信頼関係が築かれているとは、とても思えない。ある意味において、子ども達にとって学校とは、悲しい現場なのであった。
 ドワネルは、大人達の理不尽さをよく知っている。基本的には、大人に対して従順であるし、家の仕事もよくこなす。夫と妻の関係がよろしくないのも知っていながら、無理にその夫婦間に入り込んで取り繕うとはせず、母親が自分に対して怒り、父親が自分に対して怒る時も、ドワネルはさほど反抗を表すことはしない。ドワネルにとって大人の立場に対する心理的距離感を注視するのは重要で、常に子どもに対してストレスを発散するため厳しく叱る対象となっている自分――という役割の諦念が、逆に自己の反抗の芽を摘むどころか、積極的な悪ふざけの捌け口となっていた。
 ドワネルが――むろん他の同級生達も――《思春期》に差し掛かっていないわけがない。子ども達は常に大人を見、さまざまな観点で学習しているから、その大人達の愚かさや滑稽さ、理不尽さに悩まされながらも、捌け口を求める。むしろ悪い捌け口の方である。
 隠れて煙草を吸い、酒を飲む――。ドワネルは特に叱られている度合いが強いから、その酩酊的捌け口の持っていき様は凄まじい。もはや善悪の諸問題を通り越して、大人達から見放された子どもの、無意識による悪あがきというものであった。
 金欲しさにドワネルは、父親の勤める会社に忍び込み、タイプライターをかっぱらう。ところが売り手との交渉に失敗し、なくなくそのタイプライターを元のところへ戻さなければならなくなった。再び会社に忍び込んだものの、従業員に見つかってしまう。それから父親がやって来て警察署に連れて行かれる。この時のドワネルは、まるで子猫のようにしゅんとしていて可愛らしく、あどけない。しかしながらそれは、自分に対して怒っている大人への、小気味よい《従順》という最も手練手管の手の込んだ体面なのである。
【トリュフォー監督がジャン=ピエール・レオと出逢った意義はとてつもなく大きかった】

ドワネル少年は海へ

 ドワネルは純粋な気持ちを圧し殺して生きていくしかなかった。不幸にもそういう環境の中で育ってきてしまった。彼の不幸さはこういうところによく表れている。
 ある日ドワネルが友達と二人で学校をサボり、街の中で偶然にも、母親ジルベルト(クレール・モーリエ)の不貞行動――父親以外の見知らぬ男と接吻――を目撃してしまった時も、彼は何かしら大きな動揺を圧し殺していた。また、母親が死んだと言って嘘をついて学校を休んだことがばれ、その本人である母親ジルベルトに連れて帰られた後、どういうわけかジルベルトの態度が自分に対して軟化し、意外にも優しすぎる時であっても、自分の本当の気持ち(例えば、再婚相手の父親ジュリアンとうまくやってほしいなどといったこと)をジルベルトの面前でさらけ出すことができず、只々意味もなく《従順》であったりして、自分の感情とうまく向き合えていないドワネル。
 そんなドワネルが、もしかするとたった一度が二度、自分の本当の気持ちを剥き出しにしたのが、例のタイプライター窃盗事件で警察署から少年審判所に送られる檻付きの警察車両の中で、夜のネオン街を眺めながら流れ出た、“ひとしずくの涙”である。
 このショットは、この映画のハイライトでもある。ドワネルが流したその涙は、母親ジルベルトにも見せず、父親ジュリアンにも見せず、学校の教師や友達にも見せたことのない、本当の涙であり、唯一、それを目撃できたのは、なんとこの映画の鑑賞者である、我々だけだったのだ。この不幸な少年ドワネルと心から向き合えるのは、皮肉なことに、映画の鑑賞者である我々しかいないのであった。
 全く完全な形で親に見捨てられ、少年鑑別所に送られたドワネルの心の拠り所は、もはや“悪ガキ”仲間である親友ルネ(パトリック・オーフェー)しかいなかった。
 彼は最高の友である。ルネは決してドワネルを見捨てたりはしなかった。けれども、あまりにも心許ない境遇である。どういう心の変化があったのか、あるいはいったい何の覚悟があったというのか、ある日ドワネルは、鑑別所の網をくぐり抜け、鑑別所から脱走してしまう。
 まさに疾走である。果てしなく続く、荒れた小道をドワネルは独りで走り抜く。走り抜いた先には、いったい何があるというのか。彼にはまだ、その確固たる光が見えていたわけではなかった。
 しかしそこに、海があった――。海岸である。そう、映画の鑑賞者である我々は、不思議な偶然を知っている。少年審判所において、母ジルベルトがこのドワネルを、海の見える鑑別所に送って欲しいと懇願していたのだった。なんとも偶然にも、ドワネルにとって海は、光に等しい存在であった。いや、ドワネルはこの瞬間、海を慥かに所有したのだ。
 この海岸を走り抜けた先には――。そんな未熟者のドワネルを、どうか温かく見守ってほしいと、トリュフォー監督が映画の鑑賞者に願いを込めたのが、最後のストップモーションである。映画史上、最も力強く希望に満ちたストップモーションであった。

バザンに捧げられた映画として

 映画の冒頭、《亡きアンドレ・バザンの思い出に捧げる》と献辞が示されていることについて、当時20代であった私には、全く理解できていなかった。
 つまり、この映画がつくられた経緯についてである。かつてトリュフォーが、映画批評家アンドレ・バザン(André Bazin)の創刊した「カイエ・デュ・シネマ」に映画批評を寄稿し続け、映画というリアリズムを通じて二人が、いわゆるヌーヴェルヴァーグ新興の師弟的な関係にあったことを知るのは、もっと先のことだったのだ。バザンは『大人は判ってくれない』の公開の1年前、すなわち1958年の11月11日に亡くなっている。バザンの映画的思想を頑なに継承しようとしたトリュフォーは、彼への“思い出”とその恩義を、そうした形で表したのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました