伴田良輔「クチナシの花」考

【伴田良輔著『愛の千里眼』よりエッセイ「クチナシの花」】
 一瞬なる偏狂が、持続可能な酔狂となりうることを、私淑する作家・伴田良輔氏の非凡なるエッセイから読み解いた――いや学び取ったのは、もう既に30年も前のことになる。
 非凡なるエッセイとは、「クチナシの花」のことである。
 私はこれを、伴田氏の『愛の千里眼』(河出書房新社)の中で読んだのだった。伴田氏の本との初めての邂逅については、既に過去に書いた(「『震える盆栽』を読んだ頃」参照)。「クチナシの花」の初出は、1987年8月の雑誌『エッフェル塔』創刊号である(原題は「スコプトフィリマの魂胆 梔子の花」)。
 あの何たる奇妙な作家の伴田氏が、夏に白色の花をつけるクチナシ(梔子)の話を、香り高く真面目にエッセイに仕立てるわけがない――ことは、彼の本の愛好家ならば、誰もが知っていることだろう。とは言え、そのエッセイ「クチナシの花」は、彼が当代随一の大人物であることを知らしめる、美麗なるエッセイであることは、全くそうなのである。
 というと、少々嘘が混じることになる。
 エッセイストである彼を無為に称讃するのは、このあたりでやめておくことにする。それでは、「クチナシの花」について語っていきたい。

1987年はサクラが狂い咲いた

 「クチナシの花」の書き出しは、こうである。
《今年は桜の開花期間がいやに長かったように思う。最初のうちこそ、その忍耐強さを讃える気持ちがあったのだが、一週間を過ぎてもいっこうに散る気配のない桜並木を仕事場への行き帰りに眺めるうちに、次第にイライラしてくるのが自分でも分かった。そういう気分になったのは私一人ではなかったらしく、桜の木にむかってまるで早く散りなさいと脅すように飼い犬に吠えさせている不審な老人を目撃したこともある。もちろん桜はピクリともしなかった》
(伴田良輔著『愛の千里眼』「クチナシの花」より引用)
 1987年の夏に出版された、エッセイの初出となる雑誌の創刊号で、“春の桜の開花”について綴った伴田氏の判断は、まことに乙なものであったと思うし、そういった心情にこそ、彼の素性の可愛らしさが滲み出ていると思われる。
 伴田氏の文筆力を疑うわけではないが、1987年の桜の開花について、気象庁のデータを検索してみると、なかなか興味深い。
 この年の東京の桜の開花日は3月23日で、満開日は4月5日であった。ちなみに、3年さかのぼる1984年の満開日は4月17日で、この時代の10年間のうちで最も遅く、開花日は4月11日であるから、開花から満開までの期間が最も短かったことになる。
 それに比べて87年は、3月23日から4月5日のあいだであるから、満開になるまでの日数が異様に長く、散るのも遅かったのではないかと推測できる。
 したがって、伴田氏の文筆力、いや観察力はまことに鋭い――ということになる。
 そうしてその年の春、路上で散っている桜が、えらく花吹雪となっている中であらわれた男性――カメラマンのKさん――が、伴田氏にひょいと見せた二つ折り計4ページの小冊子が、なにをかくそう「微塵交」(ミジンコ)であった。
 これは、とあるアマチュアの写真コレクターがこしらえた、エロ写真専門の情報交換誌であり、言わば同人誌である。
【インパクトの強い布きれ押し込み写真】

ミジンコとアメンボ

 ところで今年の5月末、私が新聞の切れっ端で読んだのは、ケブカケシカタビロアメンボという新種のアメンボを発見したという、筑波大大学院生・松島良介(25歳・当時)さんのニュースであった。
 もう既に彼は卒業してしまって院生ではないが、名古屋市のとある森の中の水溜まりでそれを発見したという。メスだけどういうわけだか毛深いというので、名づけられたのが、ケブカケシカタビロアメンボ(Microvelia pilosa)。どうやらメスのアメンボが交尾を回避するために、体が毛深いのではないか――ということらしい。
 この新聞記事を読んだ時、なぜか、伴田氏の顔が浮かんだ。次第にこの松島さんの顔が、伴田氏に見えてきたのである。これはいったいどういうことであろうか。
 幼げに、小学校の校庭に在った人工池で、アメンボがスイスイと水面を泳ぐのを見たことがある。理科の実験では、泥の混じった池の水をビーカーですくい取り、ミジンコの観察をした思い出もある。
 ここでもふと思った――。なぜ、エロ同人誌の小冊子のタイトルが、「微塵交」なのであろうか。
 アメンボとミジンコ。この2つは人間との関わりが極端に薄いと思われるが、ヒトの肉感的な連想が絶えないのは、いったいどういうことか。アメンボのメスが毛深く、ミジンコが微塵交と書き改められているのを妄想すればするほど、私は、私淑する伴田氏の脳裏と一心同体となり、その破廉恥で卑猥な妄想のデータベースを共有することとなる。
 いや、ここに元筑波大の大学院生だった松島さんを加えてもいい。
 このことに、ご本人さんは決して反論しないはずだ。つまり、ここにこそ真実が隠されていると、私は勝手に思っているし、そう断言しておきたい(すいません松島さん、アメンボについてぜひともご教示願いたいので、連絡をお願いします)――。
【元の写真の口もとにテープを貼って複写したコレクション】

千葉のクチナシさん

 話を「クチナシの花」に戻す。
 伴田氏がKさんにひょいと見せられた小冊子「微塵交」の中身が、また偏狂的なのである。
《●耳300種、カラー有。タレント耳良質多。交換希望(札幌、イヤリング) 
 ●ほくろ1000種良質保証。小生特に胸部指向。効果買入(奈良、つくし小僧)
 ●近畿ニップル友の会結成。会員募集中。会費不要特典多し
 ●ワキ毛各種、クラシック主体、和洋キャビネ。コンポラ写真ト交換希望(堺、ハル山)
 ●10号に掲載のクチナシの花氏へ。小生連絡とれども住所不明確により返送さる。編集部気付にて連絡乞う(千葉のクチナシ)
 ●爪にとりつかれたウブな少年です、どうか先輩の激しいネイル・コレクションお譲り下さい。私現在爪写真40種、オールカラー。男爪不可(富山、オスカー)》
(伴田良輔著『愛の千里眼』「クチナシの花」より引用)
 「微塵交」は、こうした情報ばかり掲載された、複写モノ主体のエロ写真の情報交換誌だそうである。
「フツーじゃない」
 と、伴田氏は呟く。おそらくマニアックなエロ雑誌の、読者の情報交換コーナーの誌面に、そうしたマニアのサークル誌の紹介文があったのだろう。某出版社の編集部を通じて、Kさんがサンプルの実物を入手して持参してきたと思われる。たしかに、「微塵交」というタイトルは、際立ってある種の好奇心をそそられる。
 そうして伴田氏は、文中の“クチナシの花氏”という謎めいた人物にひどく興味を示す。“クチナシの花氏”に対して、“千葉のクチナシ”さんが連絡乞うと言っているのだから、謎めいていて当然である。伴田氏は、Kさんに彼らがどういう人たちなのか訊くのだけれど、Kさんはわからんという。
 そこで伴田氏は、自らの特異なる行動癖の触覚が反応したせいもあって、“千葉のクチナシ”さんに会ってみようと思い立ち、編集部から住所を聞き出して、手紙を書いたという。すると、3日後に“千葉のクチナシ”さんから電話があって、秋葉原の某喫茶店で会うことが決まったのだった。
 会ってみて、伴田氏は、
《『千葉のクチナシ』ことYさんは、今年五十四歳、痩身でヒョロリと背が高い。よくアイロンの掛かった背広が、カカシに着せたみたいに垂直なラインをつくっていた》
 と、その外見を評している。
【美しいマリリン・モンローの口を塞いだコラージュ】

伴田氏、クチナシさんの話を聞く

 “千葉のクチナシ”さんは、カバンの中にアルバムを持ってきていた。
《アルバムはじつに奇妙なものだった。めくってもめくっても、口にガムテープや白いボールや何だかよくわからないものを押しつけられた女性の顔写真が並んでいるのだ。いわゆるSM写真と分かるものもあれば、風邪マスクや花粉症マスク広告の複写、マイクをくわえるようにして歌うアイドル歌手の顔のテレビ画面からの複写、布で顔を覆ったアラブの女の写真まであった。明らかにあとからコラージュしたことが分かるハリウッドスターのポートレートや懐かしのアイドルのブロマイドもあった。たしかに全て“口無し”だ》
(伴田良輔著『愛の千里眼』「クチナシの花」より引用)
 こうした写真を集めるようになった理由を、伴田氏は、“千葉のクチナシ”さんに訊ねる。しかし、
「わからんのですよ」
 という返事があるだけだった。“千葉のクチナシ”さんは、写真だからイイのであって、複写して紙焼きしたものをアルバムに貼っていく、それが楽しいのだという。
 伴田氏はそこでぶっちゃけた卑猥な質問を投げかけるのだが、“千葉のクチナシ”さんはおっとりしているというのか、わざと質問をはぐらかしたのか、別の答えをしゃべりだす。しかしながらその話は、核心を突いているようにも思えた。
 子どもの頃、夏休みに町内の肝だめしに参加したという。夜中にお寺に一人で行かされて、そこに上級生の女の子が待ち構えていて、背後からいきなり口を塞がれた。やられた――。
「なさけないけど、オシッコもらしちゃった」
 この場合の“やられた”というのは、上級生の女の子が欲情の末に――ということではなく、あくまで小学生どうしの軽い悪戯であるから、単に背後から口を塞がれてびっくりした――という情景にとどまるものと思われる。
 こうしたことがきっかけとなって、“千葉のクチナシ”さんは、その時の仕返しすることのできなかった無力感が、ココロのキズとなり、知らず知らずそれが後々の性的な趣味として、口封じ写真という奇妙な工作コレクションに転じた――と解釈すればいいのだろうか。
 ただ、これを読んでも分からないのは、その“千葉のクチナシ”さんが、連絡を取ろうとしていた“クチナシの花氏”なる人物は、いかような趣味であったのか、ということだ。
 同様にして彼も、口封じ写真のコレクターだったのかどうか、“千葉のクチナシ”さんが何を求めて連絡を取ろうとしていたかの仔細には触れておらず、不明のままである。まさか伴田氏は、そのことを訊くのをすっかり忘れたまま、黄昏れる秋葉原の街で別れた――わけではあるまい。
 二人の別れ際、夕暮れの電気街のイリミネーションを見て、“千葉のクチナシ”さんは詩人と化した。
「小さいころ見た花電車を思いだすんです。街ごと電車になってガタゴト動き出しちゃいそうな、そんな錯覚におちいるんですよ」
 花電車とは、祝事や記念などのために花や電灯などで飾って走らせる電車――と『広辞苑』にある。古いモノクロの映像作品や写真などで見たことはあるが、私は電灯でチカチカする花電車の現物を、一度も見たことがない。
 函館市電や広島電鉄のまつりやイベントでいまだ、着飾った電車が見られる、らしい。が、時代とともにその手の見世物の規模は、徐々に縮小傾向にあるようである。
【口接でさえも塞いでしまえば性的興奮が高まるのだろうか】
 同じ花電車でも、ストリップで見せる花電車=花芸というのがある。こちらについては――ここで露骨に語ることを憚る。
 桜の開花話で文学的花芸を披露した伴田氏の底深いセンスには、脱帽する。
 私は花や植物にめっぽう詳しくないので、たとえばもし其処に、クチナシの花が咲いていたとしても、「ああ、クチナシの花が…」と、夏を思わせる季節感の入り混じった会話にはなり得ず、「きれいな白い花が咲いていますね」程度しか述べられない。場合によっては間違えて、「きれいなバラですね」と言いかねないのだ。たとえ、私が牧野富太郎著の弩級的な分厚い植物図鑑を所有していたとしても――。
 口腔につながる入口部分を人工的に「伏せ」てしまうことで、強烈なエロティシズムを感じるという偏狂な男性の性的趣味の話は、これで終わりにする。この話が何かに役に立つんですか、と訊かれても、私はだんまりを決め込むつもりである。
 

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