今年になって性懲りもなく、小説なるものを書いている。
書いてしまっている――といった方がいい。ウェブ小説サイト(https://fictional.dodidn.com/)というのをつくり、そこで[架空の演劇の物語]というのをやっている。私自身の、過去の演劇体験が、そこにあるともないともいえないが、文字通り、“架空の”、“演劇の物語”だから、中味に関してこれ以上の説明はいらないと思う。あえて補足するなら、主人公・平井文隆(ヒライフミタカ)の4年間の演劇体験物語――ということになろうか。
[架空の演劇の物語]の発端は?
なぜ今年になって、小説などを書こうと思ったか――。
今年のはじめだったか去年だったか、SNS上で知り合ったある演劇人の若者が、ツイッター(※旧ツイッター。今は驚くべきことにXと名を変えている)で、「架空の日記」というのを始めたのが、発端であった。
“架空の”、“日記”だから、これも中味の説明はいらないと思う。かなりリアリティのある表現で、何処何処の店で何を買ったとか、何を食べたとか、どこへ行って何をしたとか、そういう自分自身のエピソードやら何らかをツイートしていて、私はたいへん面白いと感心した。
彼の演劇人として台詞回しは、それより以前に聴いていて知っていた。彼の語り口調もまた、リアリズムに富んだ、いわゆるオフ・オフ・ブロードウェイのエンタメ・ショーのスラップスティックな話術をどことなく感じる、そういう特異なキャラであり、彼のセンスにおける類似性は他の人にはなかなか見当たらない。ともかく規格外な若者だと思った。
そうして彼のツイートに感心している時、私は、“架空の”、“演劇の物語”というのを思いついてしまった。もしかして――。
もしかして、“架空”の話の中で、演劇を立ち上げていく若者たちの、スレッスレのリアリティーを持ち込んだら面白いのではないか――。
構想が徐々に固まっていき、不定期で本文を更新していくというやり方を踏襲。先々、いつこの物語が終わるのか、今の私には全く見当がつかないが、相当なエピソードが盛り込めそうである。
とはいえ、これ以上、中味について語るのは已めておこう。これを読んでいただいている方、できうるなら、ぜひとも、青沼ペトロのウェブ小説サイトに立ち寄っていただき、その[架空の演劇の物語]の世界に入り込んでみてください。小説という名のリアルが詰まっているはずですから。
ところで、おおもとの「架空の日記」の発案者である彼のことについてもう少しふれておきたい。というか、今回の主題は、ある意味そこなのだから。
既にご本人は、演劇人として氏名を公表しているので、ここでも名を明かしてしまうけれど、ツイッター(※旧ツイッター。今はX)での「架空の日記」の発案者は、田中雄大さんという。
彼の「架空の日記」が無ければ、[架空の演劇の物語]は生まれなかったわけで、その感謝の気持ちを込めて――というより、その演劇人たる実績の痕跡を残してもらおうと思いつき、私は彼に、声の出演をお願いしたのであった。
田中さんは快くそれを引き受けてくれて、話がまとまった。ネット上のやり取りで打ち合わせを済ませ、後日、音声ファイルを送ってくれた。
私はこれをもとに、ストーリーをこしらえ、音声ファイルを編集し、プロモーション映像(#2)に組み込んだ。台本は一切なかった。ストーリーの設定はあとづけであり、主人公・平井文隆の親友・西山を田中さんが演じ、その西山の声がカセットテープに録音されている、というふうになっている。
後々、このカセットテープの音声は、ストーリーに影響を及ぼすことになる。
黒ネコから「黒ネコのタンゴ」を思い出した
さて、ようやく本題である。彼が演じた語りの中で、“黒ネコ”が登場する。
ここからは、[架空の演劇の物語]の話から遠ざかる。“黒ネコ”と聞いて私が思い出したのは、「黒ネコのタンゴ」という歌であった。
11年前に「左卜全と心霊写真」の稿で、小学校時代の給食時に、その6年間、ほとんど同じ曲が毎日流れていた――話をした。そのうちの一つが、左卜全とひまわりキティーズの「老人と子供のポルカ」(1970年発売)だった。思い出したのは、この曲の他に、尾藤イサオさんが歌う「サラマンドラ」(1977年発売)と、それから皆川おさむさんが歌う「黒ネコのタンゴ」(1969年発売)も、同様にしてほぼ毎日、給食時に流れていたのだった。
率直にいって、その頃、皆川おさむさんが歌う「黒ネコのタンゴ」を聴くと、たちまちテレビなどで活躍する子役の子どもたちに、とてつもないジェラシーを抱いて、その熱情が沸騰してしまうのだった。自分も子役になりたいと――。
実際に、小学校高学年の頃、児童劇団に履歴書を送ろうかと思ったこともあったが、もし子役になったら、自分がどんな演技をして、どんなに大人たちを驚かすだろうと、そういう想像が目一杯にどんどん膨らんで、自分自身が別世界にいざなわれてしまうのは、些か、快感であった。学校などどうでもいいというくらいに、その世界に没頭できたら…。
しかし、この心持ちは、クラスメートや先生、家族にも打ち明けたことはないし、恐らく話しても何ら同調してくれないであろうということは明白だった。結局、別世界の夢は実現しなかった。
「黒ネコのタンゴ」が日本人の作曲ではなく、遠いイタリアの地で生まれたということをご存知だろうか。
イタリアでは毎年1回有名な作詞作曲家の手による作品が出品されて行なわれるゼッキーノ・ドロという子供のための音楽のコンテストがあります。
ヴァイナルレコード「黒ネコのタンゴ」の解説より引用
それぞれの作品は3歳~7歳位までの子供達によって歌われ、順位は審査員と会場の聴衆の反応とによって決められ、「ピエロのトランペット」「おじいさんのボロ車」「がちょうのおばさん」等があり、NHKの“みんなの歌”などで紹介され子供たちにはおなじみです。
これらのことについては、仔細に情報をかき集めたWikipediaの“黒ネコのタンゴ”が詳しい。
原曲は、1969年3月、イタリアの音楽コンテスト“ゼッキーノ・ドーロ”の第11回で3位入賞した、「Volevo un gatto nero」だそうである。作曲はマリオ・パガーノ(Mario Pagano)、作詞はマリオ・パガーノ、フラマリオ(Framario)、アルマンド・ソリチッロ(Armando Soricillo)、フランチェスコ・サヴェリオ・マレスカ(Francesco Saverio Maresca)。日本盤の訳詞はみおだみずほ、編曲は小森昭宏。
「ニッキ・ニャッキ」も面白い
ちなみにこの第11回の同コンテストで入賞した「Il Pesciolino Stanco」という曲が、日本盤の「黒ネコのタンゴ」のB面の「ニッキ・ニャッキ」である。こちらの作詞と作曲は、アントニオ・ヴェントゥリーニ(Antonio Venturini)。日本盤の訳詞は山上路夫、編曲は小森昭宏。歌は置鮎礼子。
この「ニッキ・ニャッキ」をあらためてレコードで聴いたら、これまた思い出したのである。この置鮎礼子さんが歌っている「ニッキ・ニャッキ」も、学校の給食時に流れていて、毎日のように聴いていたのである。そうだったそうだった――。
詞の内容がなかなか面白い。要約するとこんな感じ。
きらいなもの、赤いにんじん、玉ねぎ、お魚、ごぼう、なす、鳥の肉。ママが食べなさいという。でもヒミツの言葉、「ニッキ ニャッキ ムッキ ムッキ」をとなえたら、消えちゃう。きらいな食べ物が消えちゃう。
好きなもの、ラーメン、玉子焼、天ぷらそば、コロッケ、ジュース、ミルク、シュークリーム、チョコレイト。ママがわがままだという。でもヒミツの言葉、「ニッキ ニャッキ ムッキ ムッキ」をとなえたら、なんでも出てくる。ラーメン、オムレツ、カステラ、たこ焼き…。ヒミツの言葉、「ニッキ ニャッキ ムッキ ムッキ」。
当時のEP盤のヴァイナルには、“話題集中!! 大人のための子供の歌!!”と紹介されている。
「黒ネコのタンゴ」を歌う皆川おさむさんも、そして「ニッキ・ニャッキ」を歌う置鮎礼子さんも、実に子どもらしく、愛くるしい歌唱で大人たちを虜にしてしまったことはいうまでもない。が、子どもの側からしても、決して“大人のための”ということに関係なく、ごく普通に楽しんで聴ける“子供の歌”だったように思う。むろん、“文部省唱歌”というものとは別個の色合いを放っていることは認識できた。当然、通俗的なのである。
昭和50年代を小学校時代として過ごした、いわゆる団塊ジュニア世代にとって、とくに「黒ネコのタンゴ」は、王道中の王道、歌謡曲に属する“子どもの歌”の代表格だったのである。
フィリップス・レーベルの守護神たち
ただし、それでもやはり、レーベルは何を隠そうフィリップスなのだった。
ヴァイナルを封入する袋(紙製の内袋)には、フィリップスと契約しているアーティストの顔と名前がずらりと並んでいる。ポール・モーリア、マランド、トミー・ジェームスとザ・シャンデルス、スプーキー・トゥース、ジュリエット・グレコ、バディ・マイルス、サラ・ヴォーン、ヴィッキー、ダスティ・スプリングフィールド、スコット・ウォーカー。
内袋の裏にも、泉アキ、テンプターズ、ヤンガーズ、パープル・シャドウズ、長谷川きよし、スパイダース、森山良子。
ちなみに、参考までに泉アキさんの1969年のシングル「愛を下さいマリアさま」(作詞:林春生/作曲:鈴木邦彦/編曲:川口真)を聴いたのだが、なかなか快活な曲で、日本人離れした顔立ちの泉さんの歌唱は、こぶしが利いていてシャープである。クラウンからフィリップスへ移籍したばかりの頃のシングルだ。
黒ネコというキーワードから端を発し、「黒ネコのタンゴ」と「ニッキ・ニャッキ」という歌が日本人の作曲ではなく、遠いイタリアの、“ゼッキーノ・ドーロ”の音楽コンテストで入賞したイタリア由来の曲であった――という話を今回は書いた。
今となっては逆に、あの頃これらの曲を飽きるほど聴いていた、いや、聴かされていたことに、母校の学校に感謝したいと思う。記憶の中の善き文化とは、こうしたところから芽生えるのだろう。
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