「人新世のパンツ論⑭―最終回・愛しきフンドシは二度ベルを鳴らす」では、かつてフンドシが、「日本民族」の「精神的支柱」だった云々をテーマにした。そこでは、私自身が穿いた“フンドシ風”のビキニブリーフを掲げてお茶を濁したのだけれど、実は“フンドシ風”ではなく、本来の越中褌(えっちゅうふんどし)も穿いて「撮ってあった」のを、都合上載せることができなかったのだった。越中褌こそ、その時代において「日本民族」の「精神的支柱」の大本願であり、これほど掘り下げていくならば、大変文面が長くなるので泣く泣く省いた次第なのである。
なので、今回の特別編で、存分(!!!)に越中褌について取り上げることにする。
エニグマのフンドシ男・森鷗外
私の中でどうしても拭えない、凝り固まった観念というのがある。自身の少年期に、何かの本で、「頭が禿げた髭面のオジサン」が「フンドシ姿で乾布摩擦をしている」写真を見た――という怪しい記憶である。
これがまた、自身の中で流言飛語のようなものになってしまっていた。畏れ多くも〈その髭面の「オジサン」は、「森鷗外」である〉――という事実無根の捏造。勝手にそういう写実的印象を頭の中でこしらえていたのだった。しかしこの印象が、なかなか脳裏から消えないのである。
とはいえ、もしや! と思い、インターネットで“森鷗外”の画像を検索してみた。膨大に肖像写真が出てきた。その中で、彼のフンドシ姿の画像があるとも限らない。だがやはり、そんなものはどこにも無かった。ほとんど同じような肖像画ばかりだ。どう考えたって、私自身の勝手な空想だったわけである。
ただし――。こういう解釈なのである。私の意識下では、どうやらそれを完全には否定できないのだ。〈どう想像したとしても、鷗外さんのフンドシ姿は、ばっちり抜群にかっこいい!!〉――とモヤるのであった。全くどうかしていたのである。
ところで乾布摩擦について、こんな思い出がある。
私は幼少期に保育園に通っていて、特別奇異に思っていたのが乾布摩擦(かんぷまさつ)だった。
乾布摩擦とは、《健康法として、乾いた布で肌をこすること》と『広辞苑』にある。一般的には健康法として知られていると思う。保育園に入園する時に、「タオル(手ぬぐい)を必ず持参するように」といわれ、何のことかと思ったら、毎日乾布摩擦をやるのだという。実際、保育園では、園児たちが半裸になって集合し、一斉に布で肌をこする体操(?)のようなものを毎日させられた。
乾布摩擦は「風邪の予防になる」という話だった。いまだその効果があったのかどうか、よくわからない。冬になると風邪を引いて休む子らが絶えずいたのは間違いないので、そういう風邪対策の効果があったとしても、微力なものだったのではないか。
子どもの時分からすれば、森鷗外という人の肖像写真を見ると、いかつい顔でおっかなくて厳しい人――という印象があった。だから「フンドシ姿で乾布摩擦をしている」森鷗外像が、自身の中で捏造されたと考えていい。
この場合、文豪・森鷗外というよりも、軍医・森林太郎氏の印象と述べたほうが適切かもしれない。実際のところ、林太郎氏が日頃フンドシをしていたことは確実である。明治・大正(さらにいうと鷗外死去後、昭和期の戦後まで)のあの頃はほとんど皆、フンドシ――それも越中褌を締めていたはずなのだ。
着心地ヨイヨイ越中褌
越中褌は、《(細川越中守忠興の始めたものという)長さ1メートル程の小幅の布に紐をつけたふんどし。》と『広辞苑』に記してある。
さてどんな感じか?
ということで、私も締めてみたわけである。越中褌を――。
締め方は実に簡単である。
幅30センチ、長さ1メートルにも満たない布面を、まず尻の方に垂らしておき、紐を腰に縛りつける。布面の下部を股下から持ち上げ、男性部を覆いつつ、腰と紐の間に布面を通す。折り返して男性部を覆う。たったこれだけ。布面で臀部を覆い、前方にそれが折り返されて男性部も覆うという単純な仕組みだ。
これとは種類を異にする六尺褌(いわゆるTバックのような状態で臀部が露出するフンドシ)などは、勇猛果敢な男っぽいフンドシであり、今風にいうと体育会系のフンドシということになる。六尺褌の場合は、帯状になった布がしっかりと下腹部に密着する点で、仕事着=作業着として活用され、かつては遊泳時や漁の時にも用いられた。
それに対して越中褌は、どちらかというと下着っぽいフンドシである。
それゆえ、昔は女性もこのフンドシを締め、生理などの衛生上の問題で活用されたとのこと。下腹部全体をまんべんなく覆う様相からして、性的なアピール感は皆無といっていいが、しかし、下着本来の機能としては、これでじゅうぶんだったのである。
そうはいっても、やはり、ゴム紐だけで上げ下げできる現代のパンツ――トランクスやブリーフ、ショーツ――のほうが華奢で穿きやすくて便利、といわれれば、全く反論の余地はない。
越中褌を広めたことで知られる細川忠興は、慶長7年(1602年)に小倉城を築城した。
そういえば北九州の小倉城へは、私も以前訪れたことがある(「蔵書森―松本清張と恩師を知る旅」参照)。明治期においてその城内には、西海道鎮台本営第12師団司令部が置かれていた。陸軍軍医・森林太郎がそこに居たわけである。
忠興ゆかりの地でしかも越中褌は、当時、軍の官給品であった。このことから、林太郎氏が越中褌を常日頃着用していたことは、免れない事実ではないかと思われる。
長女・茉莉さんの話
森林太郎(森鷗外)氏の長女、森茉莉さんの著書『贅沢貧乏』(講談社文芸文庫)を読むと、父親の林太郎氏がいかにキレイ好きで、それが精神衛生上においてもきわめて潔癖であったかがわかる。
風呂に入らなかった父親――。
なんだ、ぜんぜん潔癖じゃないんじゃん? と思わないでほしい。
茉莉さんの父親の林太郎氏が風呂に入らなかったのは、なんと、“他人の垢”を自分の体に「くっつけたくなかった」からだった。
湯を入れたバケツと石鹸を用意し、全身を拭っていたという。確かにこれなら、“他人の垢”で全身がまみれる心配はない。愛さえあれば多少まみれても――という甘ったるい観念は、林太郎氏には通用しなかった。
それだけではない。
ご飯を食べた後の箸は、茶碗の中の茶ですすぎ、箸の先を半紙で包み、箸箱の中にしまった。小便をした後も半紙を使う。小便をふるった後、ペニスの先を半紙で包み、その上から下帯(フンドシのこと。たぶん越中褌だろう)をしたのだという。こうなると森家では、半紙の需要がすこぶる高かったことは確かなようだ。
まだまだ半紙は試されている。いや、林太郎氏によってそれはよりいっそう衛生的に活用されていく。まるで美しいハンカチーフのように。
こんなことも書かれてあった。
劇場のお手洗いの扉を手で開ける際にも、手持ちの半紙を取り出して、じかに取っ手をさわらないようにしていた。現代ではアルコールを含んだティッシュペーパーなどを使うところではあるが、昔は半紙でそれをやっていた、ということになる(あくまで林太郎さんの例にすぎないが)。その場合の半紙は、小さく切って用意していたのではないかと私は想像してしまう。
とにもかくにも彼は、不衛生なものから容赦なく避ける。逃げる。場合によっては叩く。夏場、御膳にハエが飛んでくると、大騒ぎしてハエ! ハエ! ハエ! と叫んで追い払ったそうである。そういう時の彼の心持ちは、国家の非常事態となんら変わらなかったのではないか。
§
森林太郎氏はさすが、ライプツィヒ大学(Universität Leipzig)で衛生学を学んだ軍医である。
以前、「人新世のパンツ論⑧―パンツのモリとエイセイ」で、1926年にオランダの医学博士T.H.ファン・デ・フェルデ(Theodor Hendrik van de Velde)が書いた『完全なる結婚』(安田一郎訳/河出書房新社)の「性器の手入れと清潔」を紹介したが、ほとんどそれくらいに完璧な、潔癖なる人物だったということになる。
しかるに私個人の、過剰なまでの、〈鷗外はフンドシ姿がよく似合う〉という思い込みから端を発して、その実態を調べていくと、なんとも気丈な彼の日常の精神状態まで見えてきたのだから不思議なものである。
この「人新世のパンツ論」を書くにおいて、日本人の働き盛りの男性読者を相手に、フンドシの話はタブーだ――とさんざん申し上げてきたが、またその禁を破ってしまった。これによって読者数は一気に減るかもしれない。
しかし、どうしても、鷗外さんの越中褌姿はさぞかし美しかったであろう――という打ち消せられない想像の部分は、文章として書き残しておきたかったのである。
鷗外の『ヰタ・セクスアリス』
美しく輝いていたであろう鷗外さんの越中褌姿ではあるが、彼の文学上の欽定に、まさにその締めたフンドシに、「禁」と一筆書きしなければならなかったような私情のいざこざが、彼の人生の中で多少あったかと私は思う。
自己性欲の発端の些末を書き記した『ヰタ・セクスアリス』(1909年7月、文芸誌『スバル』に掲載)は、ある意味「画期的な読み物」といっていいのかどうか、その月に“発禁本”処分となり、森鷗外という作家の諸作品の中でも類を見ない、いわば時代の新風となった作品である。
ちなみに若い頃のドイツ留学先では、ごつすぎる恋愛私情を発疹して、その懺悔のためか弁明のためか、短編小説『舞姫』(1890年)を書いた。これはもう一般によく知られていることだけれど、鷗外の創作の文筆活動には長い空白期があったりする。岩波文庫版の『舞姫』の解説者・稲垣達郎は、鷗外のいわゆる“ドイツ土産三部作”の解説から転じて、こんな文章を書いている。
けれども、鷗外は、ここで小説の筆を措いた。文芸上のいとなみを、すべて中止したのではなかったが、なぜか小説を書かなくなった。それが、一八九七年(明治三〇)八月、突如という感じで発表したのが『そめちがへ』である。皮肉屋の斎藤緑雨は、「鷗外漁史がそめちがへは鷗外漁史のそめちがへなり」と失敗作として揶揄した。通をえがこうとしてやや煩わしく、今の多くが病んでいるごとく「報告」に陥っている傾がある。漁史らしくない、というのである。
岩波文庫『舞姫・うたかたの記 他三篇』稲垣達郎「解説」より引用
『ヰタ・セクスアリス』は、またしても《突如という感じで》その12年後に世に出たことになる。
《金井湛君は哲学が職業である》という書き出しで、『ヰタ・セクスアリス』は始まる。
《金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥 造次顚沛、何につけても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、あるいは自分が人間一般の心理状態を外れて性欲に冷淡であるのではないか、特にfrigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った》。firigiditasとは、ラテン語で不感症のこと。ゆえに彼=金井湛は、自身の性欲(の披瀝)について書いてみようというのである。
《一つおれの性欲の歴史を書いて見ようか知らん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようか知らん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたらあるいは自分の性欲的生活がnormalだかanomalousだか分かるかも知れない》
“anomalous”とは、「変態的な」という意であるが、なるほど、この本は先駆であった。
“ヰタ・セクスアリス”というタイトルは、精神科医クラフト・エビング(Richard Freiherr von Krafft-Ebing)の『Psychopathia Sexualis』(1886年)に由来し、“性的精神病理”と訳される。日本においては発禁となっていたが、大正期の日本語訳版では、それが『変態性慾心理』などというタイトルになって、大いに「変態」の語がもてはやされたらしい。
主人公の金井のところにそれらしき本がドイツから届けられて、彼もエビングを読んだ。『ヰタ・セクスアリス』はそうした話から始まるのだ。性的というよりも「性欲的生活」という解釈で、自分のそれがノーマルなのかアノマラスなのか知りたい、書いてみたいという主旨である。そうして6つの時の体験談からつらつらと思い出話を綴り、二十歳を過ぎて“角海老”という妓楼で初体験を踏んだあたりで、この金井君の若かりし「性欲的生活」の歴史が終わっているのである。
ビゴーのフンドシ画
驚かないでいただきたいが、フンドシの話に戻る。
鷗外もフンドシを締めていたことはさんざん述べたが、先述したようにきわめてその扱いは、下着に対してストイックなものであった。彼のそうした潔癖的な側面が、『ヰタ・セクスアリス』にもよく表れていると思う。文学としてそれが面白いかどうかは別にして、なにものかを「つつしむ」という霊性的主体が、彼の内面からにじみ出ているように思われるのだ。
半ばこれまで私は、フンドシという下着を、十把一絡げに「勇ましさ」の象徴とまつりあげた。またそれを米原万里氏が称した「日本民族」の「精神的支柱」と記号化したことに対して、幾分か解釈を加えなければならないのではないかと改めて思った。
確かに六尺褌のようなフンドシの特徴は、腰巻きにして、尻を丸出しにする形態の異様さから、「勇ましさ」の自己主張が際立って見える。しかし、越中褌のようなものからして、それはむしろ「つつましい」日本人としての萌芽も包含しているのではないか――ということにも気づいたのである。
鷗外のように、ペニスの先を半紙に包んでフンドシを締める――そのような潔癖な男性の数は、もしかすると意外なほど少数ではなかったのではないか。「勇ましさ」はつくりあげられた誇張でありロマンティシズムであるが、実のところ、精神の「つつましさ」を重んじる日本人男性の実存は、あまり語られてこなかった気がするのである。
明治期の日本人男性が、とくに夏場、フンドシ姿で何処ででも活動しているかのような印象を与える画を、フランスの画家ジョルジュ・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)は描きまくった。確かに、実相としてそうだったのかもしれない。清水勲著『ビゴーが見た日本人』(講談社学術文庫)の中で、彼の描いた漫画(?)をいくつか見て私はとても面白く感じた。米原万里氏の『パンツの面目ふんどしの沽券』(ちくま文庫)でもビゴーのことが紹介されている。
ビゴーが描いたフンドシ男の数々は、滑稽な様なのである。
芝居小屋で、煙管(きせる)を片手に座っているちょんまげ男は、裸でフンドシ一丁。その見た目、ブリーフにも見える。宴会で芸者とともにフンドシ姿で踊っている男たち。裸の婦人の背中を洗ってあげている三助のフンドシ姿などは、こまかく丁寧に、はみ出た陰毛まで描かれている。
遊郭で遊女を格子越しに覗く男は、着物にフンドシ姿。それから、《日清戦争後の国際社会における日本の立場を諷刺した漫画》と清水氏が述べている、日本人男性の泣きっつらのフンドシ姿からは、とてもトクシック・マスキュリニティ(Toxic Masculinity)、すなわち「自他を害する過剰な男らしさへの執着」――を思わせる「勇ましさ」は、微塵も感じられない。実はこれなのだ。
このように、外国人から見れば、日本人男性の珍奇な風俗としてのフンドシ姿は、滑稽なものであるばかりで、それ以外のイメージは沸き立たない。当たり前の話で、「勇ましさ」の象徴どころかそれは、単なる腰巻の下着なのだから。下着は下着の役目を果たしているにすぎない。
軍国主義下の昭和期において、多分に「勇ましさ」の象徴が上書きもしくは捏造されて、日本人男性にとってのフンドシは、「日本民族」の「精神的支柱」とされてしまったようである。が、大衆を見渡してみれば、半紙でペニスを包むような男性の心中こそ、ビゴーの画でなんとなくそれが表れていて、日本人男性の内面的なものだったのではないか。
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