靖国の祈り

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2000年付「靖国の祈り」より)。
 5月、快晴。午前10時すぎに市ヶ谷駅に着いた。
 駅を出て、靖国通りを直進すると、靖国神社の南門がある。
 交差点を渡り、派出所を過ぎてから気づいた。今日は休日であり、しかもゴールデン・ウイークの真っ只中である。神社を訪れる前に、どこか適当な所で軽食を楽しもうという事前の計画は破られた。軽食どころではない。立ち並ぶ店舗すべてが閉店休業だったのである。そのため、通りはまるで人の気配が感じられなかった。

 靖国通りは、両側2車線で道幅が太く、真新しいアスファルトによって舗装されており、都市空間としてはとても美しかった。歩道との段差もわずかにあるだけで、道路整備が綿密に行き渡っているようである。
 歩道の街路樹には、青々と葉が茂っていた。太陽の光がこれらの葉に射し、地面にちらちらと影がこぼれ落ちていた。普段の休日であれば、喫茶店の窓際にでも座って、落ち着いた飲食を楽しめるに違いないのだが、あいにく日本人の拵えた「黄金週間」なるものには、そういう風情は必要ないらしい。ともあれ、神社に着くまでの10分ほど、澄み切った太陽の下で久し振りに心地好い日光浴を味わうことができた。

 私は門を潜り抜け、少し奥に入った所に遊就館があるので、まずそこの展示物を眺めてから、館内に入ることにした。

《沿革:遊就館は、明治維新当時からの御祭神の遺品、各戦役、事変の記念品、その他古今の武器類を蒐めて、これらを陳列し、御祭神の奉慰と遺徳を欽仰するため明治十五年、建設開館した。その後、日清・日露両戦争、第一次世界大戦等を経て、度々の増改築、別棟新設など館の拡充が進められてきたが、大正十二年の関東大震災で大破し、撤去の己むなきに至った。翌年取り敢えず仮館を建設、規模を縮小して開館した。以来、関係者によって再建の事が図られてきたが、昭和六年、現在の建物が竣工し、昭和九年竣工の附属國防館(現靖國会館)と共に本来の使命を果してきた。昭和二十年、大東亜戦争終結と同時に遊就館令が廃止され閉館となった》
《昭和三十六年から靖國会館の二階を改修して宝物遺品館とし、宝物遺品の陳列展示を実施していたが、昭和六十年十二月、遊就館改修復元工事竣工、昭和六十一年七月、新装なった遊就館に展示品を移し、さらに展示内容を充実し再開の運びとなった》
《館名の由来:中国、戦国時代の儒者荀況の著『荀子』勧学篇の「君子居必擇郷、遊必就士」より「遊」「就」の二字を撰んで明治十三年十一月十七日命名したもので、高潔な人物に就いて交り学ぶの意である》

 遊就館の中で陳列してある宝物遺品のほとんどは、決して酸鼻を極めた類いのものではない。確かに、軍人が書き残した遺書には、夥しい血の跡がみられ、彼らの軍服は無残にひきちぎられており、その弾痕の凄まじさは圧倒させられるものがある。しかし、皇国を思い殉死していった彼らの胸の内には、ある強烈な思慕があったはずだ。少なくとも、富国強兵時代より国民が軍国主義に駆られ、戦争に総動員された時代を知らぬ現代人にとって、それは想像できない思慕に違いない。

 幕末から明治へ、日清・日露の戦争を駆け抜け、日中戦争、ノモンハン事件、二・二六クーデター、太平洋戦争。
 それでもなんとか強引に想像を編んでいけば、人々がそれぞれの時代の中で、靖国に救い求めた憂いの一端が見えてくる。

 館内では多くの老人たちが観覧していた。老人たちの、ガラス越しに遺品を凝視する眼は、過小になりつつある遠い記憶の渦を探りながらも、静かにその真実を見極めているようだった。

 遺書のほとんどを、私は読むことができなかった。とても難しい漢語が並び、判読のしようがなかった。だが、隣に立ち止まった二人組の老婦人は、その毛筆の文面を片言で語り、遺書の内容を解いていた。
 読み終わると一人の老婦人はウーンと唸った。
 その感嘆の深さはどうであったか。
 館内で流れていた流暢な軍歌が一瞬とぎれ、沈黙が流れた。
 私の脳裏には、「遊就」という文字が浮かんだ。高潔な人物に就いて交り学ぶ――。この言葉のはかなさは、まさに二人の老婦人の後ろ姿であった。

〈靖国はすべてを背負っている〉

 九段坂を下りた所で、私はほっと息をつくことができた。交差点のすぐ近くに九段会館があり、歴史の移り変わりを感じた。つくづく平穏な都市がそこにあった。

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