写真の裏側

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月3日付「写真の裏側」より)。

 写真を撮るための、「感性を磨く」ということはどういうことであろうか、ということを私は常々考えます。
 結論を先に言えば、いかなる性能を持ったカメラを駆使しても、自分自身の「感性」を飛び越えることはできない、ということだと思います。そしてまた、カメラやレンズに優劣をつけるのと同じように、自分自身の「感性」に対しても、優劣をつけるのも、間違いなのだとも思います。
 街の中のガヤガヤとした所でスナップ撮影した時、シャッターを切った瞬間にはまったく視覚としてとらえていなかった細かな情報すらも、出来上がった写真の中に、それらが含まれている――。撮る側の意志とは無関係に。
 例えば、婚礼写真を撮り終えて、後でその写真を眺めた時、自分の意志の結果として撮った中心人物の新郎新婦のその背景に、好意を持たずにはいられない「女性」が写り込んでいたとしたら、その写真の意味合いや価値は大きく変わります。つまり、単なる知り合いの婚礼写真ではなくなり、自分の心理的影響を及ぼす重大な写真として、おそらくずっと(ひっそりと)所有していたくなるでしょう。
 現実として、過去から現在、そして未来へと時間が移っていく時、すべての事象が変形・変化・変動していきます。モノも生き物も、場所も、世界も。
 写真はそのうちの一瞬を切り取り、そこに写り込んだ写実は、決して変形・変化・変動しません。しかし、それを撮った者、それを見る者の心は、その限りではありません。そこが面白い、悩ましい…と私は思うのです。何故なら、撮った者あるいは見る者は最大の権力をふるい、その写真を遺すか、捨てるかの意志決定ができるからです。
 写真を撮った者として、単に出来が悪かったから捨てたのとは別に、他の理由によって捨てる写真というのもあります。いかなる心によってそれを捨てたか、あるいは思いとどまって遺すことにしたか、客観的に考えると、それらのことは、やはり写真を撮るための、「感性を磨く」ということにどうしても繋がっていくのです。

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