※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月2日付「ヤギと再会」より)。
高校時代の3年間に行き来した、自分にとってのいわゆる“高校通学路”は、自転車通学の10キロを超える行程でしたが、雨合羽を着て雨風を凌いだ辛い思い出以外は、多少なりとも田園地帯の景色に恵まれたせいもあって、とても楽しいものでした。
逆に言うと、たとえ悲しい気分の時であっても、そうした何気ない自然(景色のみならず風、音を含む)に溶け込んで、まるでそれと対話をするかのようにして心を落ち着かせた、心を開いた、ということがありました。また、田園地帯だけでなく、巨大な建屋が並ぶ工業団地も素通りしていくので、次々と変化するその景色を見飽きることがない、という好都合もありました。
さて、ここ1ヶ月ほど、あることを思い出していて、ずっと気になっていました。
【懐かしいヤギの小屋】 |
その“高校通学路”の中途にある、工業団地から少し離れた道路際に、ある農家が飼っていた「ヤギの小屋」があったのです。道路際の無造作な一角に鉄パイプで拵えた小屋。その中にヤギは子ヤギを含めて2頭くらいいて、私は3年間、ただそこを素通りしていくだけで、立ち止まってヤギを“かまった”ことはありませんでした。が、通学路で出会う明るい登場人物(動物)として、ほとんど無意識に近い形でずっと覚えていました。
あれから20年。“高校通学路”自体、私にとって懐かしい場所であり、そこへもう一度行ってみたいと思い立ち、昨日の夕方、そよ風に吹かれて工業団地の辺りへ行ってみました。
工業団地のための、社宅的に扱われていた市営団地が一部を除いてほとんど変わらずに残存していた、ということで私の頭の中が一気にタイムスリップして、《現在》と《過去》とが交錯しました。
実際に私自身が今、ここを行き交う時、恣意や思考すること、そして悩み痛む中身でさえも、《現在》も《過去》つまりあの頃も、さほど代わり映えしないではないか、と。
天を見上げるほど巨大な工場の建屋は、あの頃と同じく精緻で立派で、ある種の緊張感を漂わせているけれども、私がそれに圧倒されている《何か》は、20年前とちっとも変わりはしない。まったくあの時のまま。それが良いことか悪いことかは別にして、ここに来た意味というか目的は果たせたような気がしました。
…あまりに突然な景色に動揺し、シャッターを押す動作が震え、むしろ早くそこから立ち去りたくなりました。
意図する構図でも距離でもない陳腐なスナップ。
しかし私が記録したのは、確かにあの、「ヤギの小屋」です。もう絶対に在るわけがないと思っていたそれが、今もそこに明るい登場人物として暮らしていたのです。もちろん、あの時のヤギではありませんが。
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