深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。
小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。
ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けばチャンピオンになるという分かりやすいルールである。ちなみに、取扱説明書にはプロレスそのもののルールについて詳しく言及していない。面倒くさい、それぐらいプロレス好きなら知ってるだろ、と突き放した対応なのだろうが、プロレス好きではない子どもがもし興味を示してこのゲームをプレイしたとしても、これではよく分からないんじゃないか…というどうでもいいことを、当時中学生だった私はかなり神経質に気にしていたことを今でも憶えている。
このゲームで最も画期的だったのは、レスラーの基本動作に、“トップロープへ登る”があり、なおかつ場外への「プランチャ」攻撃ができることだった(取扱説明書では「ブランチャー」)。
トップロープへ登ることができることで、2つの大技、すなわち「フライングボディアタック」(厳密には「ダイビングボディプレス」)と「フライングニードロップ」(厳密には「ダイビングニードロップ」)を使うことができた。これはプロレス試合の展開をダイナミックに演出する重要な技であり、プロレスゲーム史上、革命の第一節となったに違いない。
これらに加え、場外へのプランチャ攻撃が可能というのは、当時のプロレスファンからすれば、大袈裟でなく〈このゲームはめちゃくちゃリアルだ〉と驚いた要素であり、このヒット作『プロレス』への熱中度が全国で高まったのも無理はない。
ただ一つ、プロレスの技で欠かせない“寝技”が一切できなかったことはファンの間で不満の種になっただろうが、私自身はほとんどその点を感じなかった。当時としてはもうあれだけで十分、プロレスを“リアル”に再現していたのである。
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