《私が小学校を卒業したのは1985年3月ですが、その最後のクラスであった小学6年の仲間達について、私は確かにあの時――つまり卒業式の日――この仲間達と別れるのは本当に辛い、またどこかで一緒になりたい…と心の底から思ったことを憶えています。
やがていつか、同窓会があるだろう。
という純粋な期待。それはきっと喜ばしい出逢い(再会)になるだろう。という希望。
しかしあれから26年が経ち、まだ一度も開かれていない「小学6年の同窓会」という言葉だけの記念碑が、重く切なく、容赦ない現実の中の《変容》に押し潰され、あの時あんなふうに思った私自身でさえ、もはやこの先も「小学6年の同窓会」は絶対あり得ぬ、と心が転向してしまいました》
(拙著ブログ「敬老の日のこと」より)
「仰げば尊し」を自分の歌として残す。
あの曲を歌ってみたくなったのは、もしかすると、この瞬間であったかも知れない。
東日本大震災から半年、私の脳裏に焼き付いた、被災した学校を訪れる生徒らの、ドキュメンタリー映像。津波でズタズタになってしまった校舎は、当然学校としての機能を失い、彼らは臨時の教室で授業を受ける。しかしながら彼らはどこか元気であり、どこか悲しくもあった。おおむね、様々な心情を複雑に絡ませながらの表情は、むしろ平然としていて明るく屈託がない。それらの心の尖端にはおそらく、やがて別れゆく友への思いやりと、そこで折り合いを付けなければならない自己との矛盾した気持ちがあるのだろう。迫り来る《卒業》という儀式は、誰しもが通過する大人への扉であるが、彼らにとってそれは、よりいっそう重たい扉なのであろうか。
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私自身の学生時代における《卒業》の記憶のうち、ほとんど忘れかけて思い起こすことさえなかった2つの事柄がある。忘れたということを理由に、それを感じることさえなかったというのは、彼らを踏み躙っていたのも同然である。
一つは、小学校時代に私と同じ剣道クラブに通っていた、仲の良かったお転婆の女の子で、彼女は小学6年生の頃に突然、一家で夜逃げしてしまった。家庭の事情で転校したのですという担任の先生は口を閉ざし、皆も口を閉ざした。すべてを閉ざしたことによって、彼女の存在は、教室には《無》となってしまった。そして数ヶ月後の卒業式に彼女の顔を思い浮かべる者は、誰もいなかった。
もう一つは、高校時代の他学級の生徒で、卒業式を迎えることなく交通事故で亡くなった生徒数名のこと――。亡くなった生徒の家族は、引き裂かれる思いで卒業式の日を迎えたに違いない。
人それぞれ、様々な想い出の詰まった卒業式。
時に厳かに、時に反抗的になって通り過ぎようとしていた学生時代。師を仰ぎ、朋友の前途を祝してその場に別れを告げる――というのは、業を卒する儀礼の意を超越して、凝縮された人生の一辺に小刀を入れる瞬間であることを、「仰げば尊し」は切なく物語っている。
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