【リチャード・バック著『かもめのジョナサン【完成版】』】 |
かもめのジョナサン。長らく書棚の飾り物と化していたこの小説を手にすることにしたのは、その“完成版”が国内出版されると広告で知ったからで、1974年版と“完成版”との差異を散読した上で、さほど時間をかけずに後者を読み終えることができた。
とてもすっきりとしたブルーの装幀、美しい流麗な秀英明朝書体、そして何よりラッセル・マンソンのフォトグラフが随所に鏤められた本――。
リチャード・バック著・五木寛之創訳『かもめのジョナサン【完成版】』(新潮社)について、その感想をここで書くつもりでいた。しかしこの小説が、そうしたたぐいのものとは切り離され、まさにジョナサン・リヴィングストンのように魂が空に、自由に飛び立つことを願うのであれば、私個人の感想を書くというのは、蛇足の極みと言えるだろう。
ただ一つ、大いにあるいはほんの少しの気持ち程度、この小説について興味を示す方がいるのなら、是非読んでみる価値はあると思う。『かもめのジョナサン』は自ら手に取って読むこと以外、その魅力を隅々まで堪能する術は、ない。
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この本の終わりにある解説で、五木寛之氏が、それぞれの主旨を述べるためにいくつかの作品名を挙げている。
メーテルリンクの『青い鳥』やテグジュペリの『星の王子さま』、ジェームズ・ウィリアム・ガルシオ監督の映画『グライド・イン・ブルー』、デニス・ホッパー監督の映画『イージー・ライダー』など。
リチャード・バック氏が書かれた文脈の節々から、五木氏が感じ取られたもの、インスピレーション、メタファー、そのヒントとなるものがそれらの作品に当たる。1970年の発表後、アメリカ西海岸のヒッピーたちがひそかに回し読みして広まった、と、“何かの雑誌を読んだ”五木氏はそう解説している。ベストセラー本の奇妙な伝説である。
私が何故、この本を長らく手にせず、書棚の飾り物にしていたか。
それは、個人的な2つの要因があったと思われる。一つは幼少の頃、「かもめの水兵さん」という童謡を遊戯にして、保育所の先生から教えられたことがあり、水兵すなわち兵隊とかもめを結びつける歌なのであまり好きではなかったのだが、そこからの連関で『かもめのジョナサン』が好きではなかった。
かもめ、水兵、兵隊、海軍。私自身のあの戦争における海軍に対する冷徹な眼差しは、やがて“ミッドウェー海戦”に関する戦争史書などを読んで決定的となった。“かもめのジョナサン”というタイトルが、何かそうした水兵の戦陣訓的啓蒙をイメージさせている気がして、私は忌み嫌ったのだ。
もう一つの要因は、1995年以降、オウム真理教事件を起こした一人の幹部信者が、この小説に惚れ、ある種崇めていたというような話を、メディアで知ったことがあった。『かもめのジョナサン』を読むことで、何か良くない啓発を誘導されるのではないかという一抹の不安。
こうして私の中で、かもめ=水兵のイメージ、戦陣訓や信教的啓発といった力強くも耳障りの悪い要素が加味されて、恐れをなしてこの本から遠ざかってしまったのである。
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――そうではない。そうではなかった。
確かに、リチャード・バック氏の文脈(あくまで五木氏の創訳の範疇で)には、潜在的に、かつてのアメリカの、新自由主義の傾向と疲弊した国民の活路を見いだす文化的潮流や活動の集積が、ところどころ感じられる。
だとしても。
私はこれを読み終えて、『かもめのジョナサン』を、“それ以外の何物でもない”文体としての美しい小説として、感じていたいと思うようになった。
例を挙げれば、漱石の『草枕』である。主人公の画工は何もしない。何事も起こさないし起きない。ただ文体として、こちら側に伝わってくる美を感じ取ればいい。あれはそれだけの小説であった。
『かもめのジョナサン』はそれと同様なのだが、リチャード・バック氏が改めて掲げた“最終章”=Part Fourには、この小説の最大のメッセージが潜んでいる。
皮肉というか面白いことに、まさにその内容は、ベストセラーとなって長年あちらこちらで偏見に満ちた《啓発》の出汁に使われた、『かもめのジョナサン』そのものの否定と真の理解を求めたものになっているではないか。先述したように、私もこの本に対して偏見の眼で疑っていた一人に違いない。
『かもめのジョナサン【完成版】』を朗読してみると、よりいっそうその文体の美しさが分かる。
これは日本語版の文体を築き上げた五木氏の功績である。残念ながら私には、20代の頃に役者として鍛錬したはずの滑舌のいい朗読を、こなす力が無くなってしまった。冷や汗が出る。しかし、聴かせる朗読ではない、己の耳だけに美しい文体を刻み込むためだけの、朗読ならば。これなら誰でもできる。
そう、『かもめのジョナサン』はそういう小説なのである。
聖書や仏教の真理を説いた本ではない。ましてや、そこに何が書かれてあるか感じ取れ、と他者に強要すべき本ではない。
読まずにいられなくなる時。静かに胸の内に響く程度に、声を出して読む本。他の誰でもない自分だけに、ジョナサン・リヴィングストンの声が聞こえてくるはず――。
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