由紀さおり―季節の足音

【アルバム『PINK MARTINI & SAORI YUKI 1969』】
 分かる人には分かってもらえる、スレッスレの人生というのがある。飄々と生きている素振りに見えて、その内実、いちいち小さなことに感動し、涙を堪えて深く溜め息をつくような日々。本当の自分はそれなのに、でも、涙を流していてはかえって乗り越えられないような気がして、周囲への思いやりに欠けてしまうかも、と冷静に判断。やっぱり表向きの飄々とした仮面の自分があってこその自分だ、と言い聞かせ素直になれる、そういう年頃、としつき。
 
 私は今、由紀さおりさんが歌う「季節の足音」(作曲・羽場仁志、作詞・秋元康)を聴いている。ピンク・マルティーニの演奏の「季節の足音」。
 聴いていて、ふと感じた。この歌の歌詞、
 
《穏やかに 時は過ぎ 今日も輝いて 一日が終わることを 感謝してます》
 
 だなんて、10年前の自分だったら鵜呑みにしてそれを聴いていたかも知れない。が、本当はそうじゃないんじゃないか、と感じた。
 いちいち身の回りの小さなことに感動し、涙を堪えて、深く溜め息をつくような日々がくりかえしくりかえしやってきて、本当は辛くて哀しい。穏やかに過ぎゆく時間や季節に感謝したいんじゃなく、今日もなんとか頑張って“乗り越えられた”「自分自身」を褒めてやりたい。
 飄々と生きていこうとする決意と諦念の裏返し。でもやっぱり、繁忙の合間に一息ついて飲んだコーヒーの、その香りが鼻孔に到達するうちに、見えない何かにありがとう、と感謝を言いたくなる心持ちに変わる。そんなふうな、若い頃には絶対分からなかった、生きていくことの心の襞――すべすべなんてしていないざらざらとした襞。普段は触れちゃいけないこの襞に触れれば、それなりの痛みが伴う――の危険な触覚。それがこの歌の本当の意味。そういう年頃、としつきでないと分からないもの。
 
 この歌は、由紀さおりさんとピンク・マルティーニのコラボじゃなきゃダメなんだ――と思う。この曲をレコーディングした、アメリカのオレゴン州ポートランドにあるKung Fu Bakeryのスタジオをホームページで調べてみた。ポートランド。なんて素敵な街なのだろう。山や川や緑に囲まれた街。アルバム『PINK MARTINI & SAORI YUKI 1969』には由紀さんやスタッフらが路上でジャンプしている楽しそうな集合写真があったけれど、このアルバムが録られた2011年の3月から6月は、きっとポートランドの豊かな自然とその清々しい空気に解放されて、本当に楽しいレコーディングだったのだろう。でも、そんな場所だったからこそ、「季節の足音」の歌と演奏は、スピーカーからひしひしと生の人間の動きや息づかいが伝わってくる。
 
§
 
 人はたぶん、それぞれのある「節目」を迎えた時、自分やその身の回りにあった物事を顧みる。それはもしかすると、幼い子供でも自分の卒園式を迎えた時にだって、幼心に顧みるものではないだろうか。
 
 思い起こせば私は――これは自分だけの「悪い伝説」だと思っているのだけれど――中学の卒業式の1週間前まで、つまり「1週間後」に「卒業式がある」のだということを、まったく気づかなかった(忘れていたというより、“気づかなかった”)。おそらく誰しも、卒業式が近づけば、それなりの重圧と緊張感が自分の身に降りかかってくるはずなのだろうが、私にはそれが、感じられなかった。あまりにも飄々としすぎていたからか、あるいは単にぼんやりと生きていたからか、とにかく卒業に対する観念が欠落していた。そういう感じで自分が中学生だった時代、卒業式に出て卒業証書を受け取るという大切な儀式、その「節目」を、ほとんど蔑ろにしていたのを思い出す。
 ――あの頃、こんなことがあった。卒業式の数日前の放課後。今まで仲が良かったのに一度も学校の外で遊んだことがなかった友人が珍しく、「今から俺んちに遊びに来いよ」と言ってくれた。一度も学校の外で遊んだことがなかった理由は、その友人が部活動で忙しく、日曜日や祝祭日でさえ部活動があったからなのだ。もちろん高校受験のための勉強、という忙しさもあった。その時友人はもう、部活を引退していたから、皮肉にもようやく訪れた卒業という間際の緩やかな空白に、初めてその友人が遊びに誘ってくれたのである。
 でも私はその時、無下に友人の誘いを断ってしまった。なんとなしに断ってしまった。今にして思えばその時の私は、何と冷たい態度だったのだろう。学校では最も信頼していた友人であったのに、軽い気持ちで流してしまい、相手の優しさを踏み躙ったのだ。学校を卒業して以来、その友人とは二十歳を過ぎる頃くらいまでは年に一度、音信のやりとりをしていた。しかしそれ以降の消息は、まったく掴めなくなってしまった。
 
§
 
 いま私は再び、その友人と出逢って語らいたいと切望しているのだけれど、音信は途絶えたまま、向こうからの返信はない。そんなことをここ数年ずっと続けて、ざっくりとした諦念と向き合いつつ、あの時の罪を「節目」のごとに顧みている。まだ私は何一つ罪を償っていない気がする。
 
 「季節の足音」を口ずさむ。
 うっかりすると、ぽろりと涙がこぼれ落ちそうになることがある。こういう瞬間を若者言葉で“ヤバい”という。身体が一瞬膠着し、時の移ろいがどれほど残酷なものであろうかと心に迫ってくる。 ヤバいヤバい――。いや、でも、私には心などあるものか。飄々としていよう。そうだそうしよう。そんなふうに開き直って踵を返す。
 今度は楽しげにうきうきとさせながら、「季節の足音」を口ずさんでみる。ポートランドの郊外の自然が、脳裏をかすめる。うららかなそよ風。薄めのセーターにくるまれた身体の、その首回りの隙間からふうっと内部に入ってくる風の妖精っぽさを想像してみる。“足音”がしっかり聞こえるまで、私は飄々と生きていたい。
 

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