【cram school『投影法e.p.』】 |
8月に劇団鴻陵座の演劇公演を観たのはつい昨日のことのようでもある。そこでオープニングとエンディングテーマを提供していたロックバンドcram schoolの音楽について(厳密にはその音が)、この1ヶ月半近く、私の頭の片隅でずっと鳴り響いていたように思う。
これを書いている現在では、ヴォーカルのじゅんの(齊藤隼之介)が弾き語りという形であちこちのライヴハウスに出没して活動している。そしてこれを書き終えた後も、彼は何かしら流動的に変化して活動を続けるだろうから、いま私が書けるのは、オープニングのテーマであった「Oh My God!」とエンディング曲の「広がる」、そして彼らcram school(Vo&G齊藤隼之介、Gt雜賀黎明、EB竹内蓮、Drm高林洸来)の3曲アルバムCD『投影法e.p.』(1.「レイトショウ」、2.「三月ウサギ」、3.「広がる」)の音楽についてである。
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先述した鴻陵座公演の稿(当ブログ「劇団鴻陵座『OH MY GOD!』を観たの巻」)で私は、cram schoolの音楽について、ほんの少しばかり、このように書いた。
《オープニングテーマを提供しているcram schoolの音楽が心にしみて、モノゴトが溢れかえって過敏症だらけの世の中の個人の心持ちを代弁するかのようで、その音と声の熱量は、こもって熱い。いい曲だ》――。
アルバム『投影法e.p.』のサウンドでも、4人のそれぞれの音が剥き出しのまま、まるで呼吸と無呼吸とをかいくぐって迫ってくるかのように、力強く耳に押し当てられて私は、溺れかけた。「レイトショウ」における歌詞では、
《そういえば東京は今日もいつも通り それでも確か明日も来るみたい 僕はほら、その、恋をして 生きてることすら忘れそうだ》
と呟かれ、
《抱きしめてもいいかな 変わってしまっていない夜》
と語られる時、これを書いたじゅんのの寂しさを想った。
いつからこの世の中が、個人の「生きてる」ことが《自由》ではなく、何か見えないものに押し当てられた、頑ななカリキュラムになってしまったのか、あるいはそう感じざるを得なくなってしまったのか、私はcram schoolの音楽を聴きながら思ったのだ。《抱きしめてもいいかな》の後の《変わってしまっていない夜》のあいだには、途方もないこの世の中に来てしまった絶望感を味わう、“だけど”、が転がっている。
あまりにもそのことは心理として大きな問題だ。恋をして、恋人を抱きしめたとしても、何も変わらないであろう《景色》と自分の《心》が、葛藤というより絶望感なのである。絶望の途であるネット社会において、恋人がいる・いないの違いは、自分のプロフィールに「恋人いる」or「恋人いない」のtag=“タグ”が、レッテルとして付加するだけのようなもので、その中身が個人の物語として語られることは、ない。
過敏症――すなわち明らかに過剰なモノゴトの世界において、かつて在った「卵形」の概念を考える。卵は、固い殻に覆われて中に液体が包み込まれている。かつては、ネットワーク社会が寡少状態で、固い殻が存在し得た。液体は、固い殻に守られつつ、ゆるい速度ではあるが、純度を保ちながら移動が可能であった。移動した先で殻は割れ、液体がそこに広がる。全体としては転々とした社会の構図だ。
固い殻はつまり、中のモノを、純度を維持したまま運ぶ、器のようなものである。中の液体が世の中のモノゴトだとすると、今の過度なネットワーク社会=世界観というのは、この固い殻の存在し得ない、液体が目の前でダダ漏れした状態を指している。隣同士の液体が必然的に混じり合い、それがまったく別の液体と変化し、個々のモノゴトの純度も常に変容してしまう、相互移動困難な状態。「卵形」のない世界。言うなれば、ただ近辺のモノゴトと混じり合うだけにすぎない、カオスなのだ。
そのカオスの音楽こそが、じゅんのが詩として歌うcram schoolの世界である。《景色》であれ《心》であれ、モノゴトがすべてぐちゃぐちゃに混ざり合った状態を見ているから、何も変わっていない、変わらないモノとして見えてしまう世界。我々はその内側にどっぷりと浸かっている。
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「三月ウサギ」の歌詞が、ある意味物語っている。
《息をする 電話をかけてみたい 空を泳ぐ 雲の群れ 眺めてる 理由を作りたい 息をする》。
自己の行動と可視と、思考とが、同流の中に位置づけられている。これが今の人々の、生き方なのだ。生きる性なのだ。異なる概念への敬意と尺度のない、カオス世界。私はそうした世界観を歌うじゅんのの歌が、そこはかとなく孤独感に満ち、好きである。肉体の一器官のように、その音は体内を駆け巡る。
耳を傾けていよう。
cram schoolを支えているじゅんのが、これから様々な活動を広げ、大義をもって新しい何かを生み出していくことに、私は肯定的だ。単にcram schoolというスケールを遵守するのではない、変化していくことにも。
新しい何かを見つけ、皮膚感覚でモノゴトをとらえ、詩の世界ががらりと変わったとしても、私はじゅんのを支持していきたい。cram schoolは、私の《心》の中にずっとあり続ける――。
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