それはまだ冷え荒んでいた冬の2月のこと。私はある日の夜、自宅で入浴をしながら、何気に《初夏》の季節を夢想してみたのである。それは肉体の耐えざる反抗でもあった。あまりにも寒い日々の連続であったから、肉体にとっての心地良い夢想――寒さから解放された新緑の初夏――に思わず心が傾斜したのである。
確かに、去年の初夏のあたりから、突如として始まった家庭のゴタゴタ続きのおかけで、日々折々の季節を肌身で感じ取る余裕すらなかったわけだから、そのすっかり忘れ去られていた《初夏》という季節を、既に年を越えてしまった晩冬に思い描きたくなったのも無理はない。どこか新緑の季節が懐かしいと思わせてくれるのは、たとえば鮮やかな上野の公園の光景が脳裏に刻み込まれているせいであろうか。
バスタブから湯が立ちのぼる。その寸前に、首筋から汗が滴り落ちる。
湯から身体を起こして、頭を洗う。思いがけず、シャンプーの量が多い。泡立ちが果てしなく続く。次は身体を洗う。ジャブジャブジャブと湯を上半身にかけた後、シャボンの香りが柔らかく裸体の隅々から漂ってくる。爽快な気分に陥る。
おそらくそうした瞬間から、メロディは生まれたのだろう。風呂から上がってPC内のCubaseを立ち上げると、そのゆったりとしたメロディは、チェンバロの奏でる音となってスピーカーから響いた。とりあえず記録に成功。ともかくそれが、「初夏の沐浴」というタイトルの、曲作りの始まりであった。
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【新着のボクブリを穿く私】 |
始まりは程なくして終息を迎える。作曲の行程はあっけなく終わる――。形式的にはそのチェンバロは、2分半ほどで緩やかに結びを迎えたので、これに則ってほかの楽器のパートを付け加えても、さして難儀な展開にはならなかった。どこかしら幻想的で、それでいて日常的すぎた。仄かな明暗も感じられた。程々小さく素朴な曲である。素描と言っていい。特に仰々しい部分はなく、子宮的邂逅というにしてはあまりにも平易だ。波乱のない曲の誕生。
波乱のない曲の誕生――で何が悪い…。私はぽつりと独り言を呟いた。生まれ出ることの喜び。それは、安産であろうと難産であろうと等しいものだ。他人に喜んでもらえそうもない、キャッチーなメロディがなく、躍動するビートを含まないという無遠慮な素朴。ただしそれは、自らの心中で発露するものが何らなかった、という意味のものではない。自らの心に何かしら空疎ではないものを感じ得たからこそ、生まれ出たのである。子宮的邂逅は必ずしも母体を癒す所作ではない。
作曲の行程には、時にそうしたもやもやとした葛藤――エゴイスティックなconflict――がしばし訪れる。本当は、葛藤はとても大事だ。歌でも葛藤が必要である。が、今回はひょろりとした態度で平然しごく。若年による若気の至りと、壮年末期のある種の気概とは、どこか感覚的に似ているのではないか。あらゆる不安を訝しく立ち入らせない奔放なる無邪気さが、心の何処かにあったりする。何はともあれ、このようにして「初夏の沐浴」の作曲は一段落してしまった。
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【ユニクロ&Rolandのマニアックなコラボ】 |
この先の蒸し暑い夏には、涼しげな格好がよかろう。休日の前の日の夜の散歩では、近所にあるスーパー銭湯へ訪れたりする。そうした際、何か涼しげな格好で沐浴の場に臨みたいと、ふと思った。
湯に浸かるというのは、単に身体を温めるということだけではない。無論、湯場で身体を洗い、清潔さを保つことも目的の一つだが、何か気持ちを軽くし、湯に浸かりながら、ほんの少しの心のゆとりを補うべく、精神状態の再起動を図ることができるだろう。湯上がりのビール、あるいは冷たい水でもウーロン茶でもいい。本当にほんの少し、心身に潤いを与えることで、気分そのものが何か刷新されたようになる。すごく大事なことだ。
さて、これから迎える夏のために、その湯場への散歩のために、薄手の黒の甚平(夏用の羽織)を新調した。靴下も買ってきた。ああそうだ、下着のボクブリも新しくしてみようじゃないか。あまり気取らない帽子も欲しい。おっと、ユニクロで、「ザ・ブランズ マスターピース」なんてやってるぞ。Rolandがユニクロとコラボして、“TR-808”のTシャツを販売していたので、それを買った。
こうして私は、実践主義感覚において、いろいろと夏の趣をコラージュしてみたのである。夢想も含めて。冷蔵庫から冷たくなった伊右衛門のボトルのキャップを開け、ごくごくと苦い茶を飲み干した。日本の夏だが英国的試みかな、と思った。
気分がいい。葛藤を凌駕できる精神状態の再起動である。カラコロと下駄を履いて、しゃんしゃんと照った太陽の下、今年の夏はどれだけ汗を掻くというのか。夢心地、一人の男子として、爽快な汗で夏を出迎えたい。そう、曲作りも――。
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