【1月28日付朝日新聞朝刊より、嵐の決断を伝える記事】 |
今これを書いている私自身が、こうしてジャニーズ(現SMILE-UP.)のタレントである嵐のメンバーの去就について書いていることを、たいへん不思議に思っている。端的に言って、私の守備範囲のトピックではないし、それをこのブログに書いている非常に奇妙な感覚に、正直、鳥肌が立ってしまっている。
私はアイドル・タレントの追っかけをしたという経験がない。特段、嵐のファンであることを隠していた、ということでもない。さながらこの日本にいて、今回のニュースを知った時、誰しもが感じたであろう“時代の裂け目”を想像したのである。嵐が芸能界に君臨していた平成の時代――。彼らにとってそれは、いったいどういう時代であったのだろうか。そしていよいよ、その終焉を迎えるらしいことが分かり、人々の心の戸惑いも想像できる。もしかするとこれから、何か、大きな流れでモノゴトが変わっていくのではないかという、世の中の漠とした不安と心配と、幾分かの期待――。
嵐は1999年のデビュー以来、言わば“国民的アイドル”の地位を確立し、あどけない表情が魅力的な、若き才能達として各メディアで引っ張りだことなった。タレントとして、近年希にみるプロフェッショナルなアイドルグループである。国内国外問わず、幅広い年齢層から絶大な支持を得てきたという印象が強い。そんな嵐のメンバーが、年齢の30代半ばを越え、一つの決断に至ったこと、すなわち20年あまりのグループとしての活動に「一つのピリオドを打つ」というのは、それ自体が劇的な“事件”だと言っていい。何故なら、誰しもこうした成り行きを、起こりうる「予兆」としてとらえてはいなかったからである。
劇的な“事件”――その特異なことの瑣末として、アイドル・スターである嵐を語ることは、門外漢である私に到底できるわけがない。がしかし、彼らの活動休止宣言の余波で思ったのは、突然すぎる話ではありながらも、いま日本がおかれている立場と同様にして、我々日本人は、大きな《転換期》に差し掛かっているのではないか、という問題提起についてである。
我々はその「時代の断層」の真上を通り過ぎようとしている、というなんとも実存性の危うい、「不安と覚悟」の只中にいる。今年の4月には平成の世が終わり、翌月には新しい年号となる“終わりと始まり”のカウントダウン。この平成の世が終わるというおよそ30年ぶりのパラダイム・シフトは、どのような形で人々に影響を与えるというのか。さらに来年の夏には、東京オリンピックが開催される。これもまた加速度を増して近づいている「不安と覚悟」のカウントダウンである。
加えて、この嵐のメンバーの鋭角なる決断、すなわち「2020年12月31日」をもって活動休止するというカウントダウン――。国民的アイドルが一つの大きな区切りを付けるための「不安と覚悟」のカウントダウンである。ファンであることを問わず、心理的に多くの人々がこれに影響されていくに違いない。
これらの重なり合う、3つのカウントダウンの渦中にいる我々日本人の心理は、もはや平易であることも、平常を装うことすらもできない。すべてこれらに――0分00秒という時間の集約の罠に――飲み込まれていくのである。世の中全体の《転換期》という「時代の断層」を飛び越えていけるかどうか、誰も分からないのだ。少なくともこの3つのカウントダウンに従属した日常生活がしばらく続くのは、どうも確かなようである。
あるテレビのバラエティー番組に出演した彼が、〈自分の背中には「翼」が生えている〉と、カメラの前でそれを披露してくれたことがあった。ぽこっと小さく白く浮き出た、可愛らしい「翼」…。あの時の幼い面影の彼が、数十年後の今、まさに渦中のカウントダウンの真先にいることの奇妙な宿命。我々一人一人もまた、この《転換期》の渦にただ他人事として巻き込まれるのではなく、自らのカウントダウンとして、とらえることはできないだろうか。
そのこころざしとしての、「翼」を持ちたいものである。
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