コロナ禍の前途を見据えて

【『Sound & Recording Magazine』2020年6月号より】
 コロナ禍がそれぞれの活動家にどのような影響を与えたかを振り返ることは、無益ではないはずだ。一つは、民主主義の役割を果たし最善を尽くした例があり、一つは、民意から乖離した強権的な政治によってコロナ禍の被害を拡大させ、皮肉にも民主化運動の呼び水を急進させてしまった例として、顕著なものを提示してみたいと考える。コロナ禍は実体的な被害(あるいは弊害)とは別個の部分で、民衆の心情を刺戟し、いみじくも人類の繁栄への無軌道さに対する警鐘を鳴らしているようにも思われる。

ベルリンの音楽業界の対応

 月刊誌『Sound & Recording Magazine』(リットーミュージック社)で「Berlin Calling」を連載しているのは、ベルリンで活動している音楽ライターのYuko Asanuma氏@yukoasanumaで、私はこのコラムをよく読む。
 2年前の記事になるが、2020年6月号では、世界的に広がりを見せた新型コロナウイルス(COVID-19)の影響の、初期のエピソードが綴られていて、今となっては興味深い(「新型コロナ・ウイルス被害に対するベルリン/ドイツ音楽界の動き」)。
 Asanuma氏は、本コラム執筆時の4月初め、“自己隔離の生活が4週目を迎えた”旨をまず伝えている。新型コロナウイルスの感染者が増え始め、先の見えない不安に包まれていると述べる。
 ドイツでは、新型コロナウイルスのパンデミックの弊害に係る、文化事業の重要性と脆弱性を認識し、3月に補助金(返却義務のない給付金)の支払いを始めた。Asanuma氏の場合、オンライン申請をした翌日には、5,000ユーロ(当時の日本円で約60万円)支払われたという。
 初期の蔓延時で、多くのアーティストやクリエイターが活動を制限させられた記憶は生々しく残っている。
 ベルリンでは、ClubCommissionというクラブ事業者団体が、『United We Stream』を立ち上げ、市内のクラブよりストリーミング配信を始めたという。クラブは個別でも、クラウド・ファンディングをおこなっていた(2年後の現在は、ウクライナ支援に力を注いでいるようである)。
 また別の支援活動では、政治意識の高いアーティストなどが連名で、「Berlin Collective Action: Nightlife Emergency Fund」(ベルリン集団アクション:ナイトライフ緊急募金)を立ち上げ、資金を集めた。この募金は、移民やLGBTQなどのクラブ関係者に分配されたという。
 ドイツの著作権団体GEMAも迅速に対応し、登録メンバーの作曲家作詞家の援助を発表。楽曲使用料の厳しい徴収を和らげ、緩和策を打ち出した――。
【2022年12月29日付朝日新聞朝刊より】

ゼロコロナ政策の反動

 民主主義から程遠い国、中国の大都市で、若者が声を上げた抗議デモが、昨今報道されて已まない。上海で起きた抗議デモである(2022年12月29日付朝日新聞朝刊の記事「ゼロコロナの不条理 声を上げた若者連帯」)。
 11月27日、上海市のウルムチ中路で、数百人以上の抗議活動がおこなわれた。警官と民衆のあいだで小競り合いが起き、連行される者もいた。
 同月24日に新疆ウイグル自治区のウルムチ市で、10人が亡くなる火災があった。ゼロコロナ政策の強権的な防疫手段によって、都市封鎖されていた一角のアパートから出火し、消防車が近づくことができず、被害を広げた――という情報が、ネットで拡散した。
 当局はその因果関係を否定。ネット上に書き込まれた抗議のコメントは次々と削除され、ついに2日後、江蘇省の南京伝媒学院の学生らが、「言論の不自由」と白い紙を掲げて抗議。方々の学生や市民がこれに賛同し、「白神革命」と呼ばれる運動に発展。首都北京にまで運動が広がったという。
 中央政府がこうした抗議運動に反応したためかどうかは定かではないが、ゼロコロナ政策を転換したことは記憶に新しい。
 中央政府からすれば、巨視的にとらえれば、若者の民主主義を訴える“反共分子”を恐れていることは、もはや隠すことができないでいる。しかし今、そのゼロコロナ政策転換の無情な反動というべきか、中国全土でこれまでにないほどの感染者数が増大。当局はその事実を隠蔽しようとしている。
 そうした中、諸外国の入国手続きでは冷静な対応――ある意味冷ややかな対応――をとり、中国からの渡航者の規制(防疫処置)を強化している。ただし、12月30日付の日本経済新聞が伝える記事(「EU、中国からの渡航制限は「不適当」 域内の免疫力高く」)によると、欧州連合(EU)の欧州疾病予防管理センター(ECDC)は、中国からの渡航者の検査や隔離は不適当だとしている。EUではワクチン接種が進み、免疫力が高いからだという。日本やアメリカでは、入国時の検査を義務づけている。世界的に終章に向かいつつあったコロナ禍との戦いが、再び繰り返されるのではないかという不安がよぎる。

活動家はポストコロナ禍をどう生きるべきか

 それぞれの国で、それぞれの生活者は、サスティナブルなウェルビーイングを希求する。それが当たり前のことであるかどうかは、その国の国家的体制や文化によって、認識に差があることは否めない。
 あらゆる階層のリベラルな活動家たちの、これまでの2年間を想像してみる――。むろんこれには、事実としての見聞を含めて――の想像である。
 新型コロナウイルスの度重なるパンデミックによって、文化的な営みが著しく規制されることは、精神的あるいは肉体的にも支障をきたすことを、我々はこの2年間に学んだ。それぞれの生活者が、濃密に委ねる個々の活動――第一義的にはビジネス。第二義的には生活の付加価値としてのサブカルを共有すること――に自己投資していくのは当然の帰結である。
 たとえSNSの一端であるツイッターが、無料アプリとしての旨味があるとはいえ、そのデバイスとなるモビリティーツールや活動のためのフットワークに、個人が相応の投資をしていることは、もはや現代人の活動家の生活のためには、選択の余地のない要諦なのだ。若者が特にそれを謳歌し鼓舞し、現代型の民主主義の方向性として――理想的な民主主義の可能性として――「言論の自由」のSNSが担保しているメリットは、意外なほど大きいといえるのだ。
 活動家であることの条件として、そうしたツールやフットワークに金をかけていない者は、そこから除外されても致し方ないとも思える。それが現代型の民主主義の方向性なのだ。ツイッターであろうがマストドンであろうが、ブログであろうがウェブサイトであろうが、それぞれのサーバーに自身の活動の記録(ログ)が無い(あるいは極端に少ない)ことは、活動家として認知されにくいと言わざるを得ないのである。
 そうである以上、自称インフルエンサーだとかデザイナーだとか、演劇集団の役者だとかの肩書きはほとんど意味を持たない。肩書きが重要なのではなく、少なくともインターネット上では、活動そのもの(ログ)が重要なのである。でなければ、それはその人にとってリベラルな活動とは直結しない、指して重要ではない――ことを否定的に明示しているのだから。金をかけずにアカウントがあるだけの肩書きは、いずれ化けの皮が剥がれるのは自明である(わかりやすい喩え。わたしは野球選手です。でも、この2年間野球のボールを握ったことがありません)。
 活動家としての存在、あるいは存命の問題に匹敵する形で、個人のライフワークやサブカルに著しく「水を差した」のが、まさにコロナ禍である。この2年間、全ての活動家が、活動家でなくなったことを意味する。
 だからこそ、なおさら、コロナ禍によって喪失感に苛まれる個人が、いかにポストコロナ禍を生きるか、新たなプラットフォームやネットワークを築いたり、個々のモチベーションを再生復活させていけるか、私はそこにこそ関心があるのだ。同時に、インターネットの時代にいかにして真のサブカルを培うことができるか、それが私の使命だと思っている。
 しかし、時に、温厚な我々は、非情な強権政治に対して、当たり前の公民権を守るために、闘わねばならないことがある。その時必要なのは、ペンの力であり、言葉である。言葉で主張してはじめて、自己の権利は守られる。
 そのためのプラットフォームは、複数的に用意しておくべきなのだということをチェックしておこう。ツイッターにしがみついているだけでは、ダメです――。これは忘れず肝に銘じておかなければならないことだと、私は思っている。

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