性の話。を閉じて

【パンツの話はいずれ…やります。。】
 私自身が「性について学ぶ」ことを自覚したのは、小学6年生の時の性教育本との出合いであり、ある友達のまばゆい純粋無垢の記憶である。2012年10月16日付の「孤独と神話【補遺】」にそのことを書いている。
 いうなれば、この思い出から端を発して、自らセクシュアリティ教育に関するウェブサイトを立ち上げたのだった。
 《穴があったらはいりたいくらいに拙いウェブサイトで気恥ずかしい》と、2月28日付の「恋するベアー―性教育関心への定点観測」で自身のウェブサイト[男に異存はない。性の話。]について綴った以降、当サイトの投稿(更新)を終わりにしたのは、4月11日のことである(「【最終更新】答えのない性のメッセージに対して」)。
 終わりにした理由については、そこに詳しく記してある。
 自身の感覚として、ウェブサイトを2017年に立ち上げた以降、巷にどんどんとセクシュアリティ教育に関連した若手のグループ――だいたいほとんどがNPO法人――が気勢を上げているのが目に付いたし、実に彼らが積極的にあっちこっちに走り回ってセクシュアリティ教育に係るセミナーやワークショップを催しているのを窺うと、もう私のウェブサイト立ち上げなどは幼稚臭くて、専門家さんらには勝てないと正直思ったし、本当に関心を持っている子どもたちや一般の方々にとって、信用のおける、“助けてくれるありがたいグループ”と思えるものは、そういう人たちの存在であり、またそういう関わり合いのことなのだなと、つくづく自身の無力さに愕然としたのだった。
 と同時に、友人知人も私がこういうサイトを運営していることを知ってはいると思うが、「ちょっとアクセスしてみたよ」とか、「あのテーマのあの話は、○○だよなあ」とかの感想を、一切聞くことができなかった点、この6年間の力だめしの結果が出ていた、とさえ思った。それくらいに関心の持たれないサイト――。ツイッターのフォロワーさんからも不問に付す更新情報だったかもしれない。
 そういうわけで、[男に異存はない。性の話。]はまさに、《穴があったらはいりたいくらいに拙いウェブサイトで気恥ずかしい》と思える代物であり、その気恥ずかしさから投稿を、いさぎよく「やめる」決心をしたのである。継続してサイトをご賞味いただいた方々に、心から感謝し、またこの度のことをご理解願いたい。
【2023年4月18日付朝日新聞朝刊「触れて遊んで『恥ずかしくない』」】

セクシュアリティ教育とはなんぞや?

 例えば日頃、“性教育”という言葉を聞くと「恥ずかしい」とか、「エロい」とか思ってしまう人たちにとっては、現代型の“包括的セクシュアリティ教育”なんて、疎ましいと思っていることだろう。そうでなくても、そんな関心のないことにかまってられない――と思う若者も少なくないのではないか。
 そこで、セクシュアリティ教育の中で最も知ってほしいこと・大事なことを、ごく簡単に、ざっくばらんに要点だけ述べてみたいと思う。私が最後の投稿をした後、ちょうど新聞記事で掲載された次第であり、それをここで簡単に取り上げてみたい。
 要するに、大事なことは、たった二点しかない。「コンドームを付けること」(=避妊をすること)と、相手と性的な接触をする際には、「性的同意」を確認すること――。
 4月18日付朝日新聞朝刊に「触れて遊んで『恥ずかしくない』」という記事が掲載された。3月26日から28日、東京の渋谷区で「第8回UNESCOユースセミナー」が催され、セクシュアリティがテーマの同セミナーで、コンドームについて学ぶ時間があったという。
 全国津々浦々から高校生や大学生が参加し、性について学ぶセミナー。参加者はコンドームを手渡され、実際にバナナを使って、それにコンドームを被して避妊の仕方を学んだようである。
 なんとなく避妊のことは「恥ずかしい」と思ってしまう感覚が、高校生くらいの若者にはあると思うが、セミナーを通じて実物を観たり触れて知ることで、コンドームや避妊について、そうしたものを「恥ずかしい」と思わずに、身近なモノやコトとして受け入れられるようになったのではないだろうか。
 もう一つ、性的接触における「性的同意」について、アメリカのアニメーター、レイチェル・ブライアン(Rachel Brian)さんが語っていたのは、4月23日付朝日新聞朝刊「『性的同意』って? 伝えたい」だ。「性的同意」の概念を、無理やり人にお茶を飲ませてはいけないことに喩えてわかりやすく動画にした話が綴られている。
 また、ブライアンさんは、2015年に『Tea Consent』(お茶と同意)という本を共同制作して出版。日本語訳では集英社から『子どもを守る言葉『同意』って何? YES、NOは自分が決める!』というタイトルで刊行されている。
 新聞記事では、《3月に閣議決定された性犯罪をめぐる刑法の改正案では、性的な行為の前に相手の同意を確認する「性的同意」の有無がより注目される条文になりました》と冒頭で述べられており、実をいうと、性的接触に限らず、人と人とのあらゆる交際において、「同意」の「確認をとる」ことは、お互いにとってとても大事なプロセスであり、「同意」もなく無理やり何かを押しつけてしまったりすることは、人としてたいへんモラルに反することであり、恥ずべきこと――というコンテクストにも通ずる話なのだ。
 ちなみに、[男に異存はない。性の話。]では、昨年9月に「セイテキドウイってなに?」と題して性的接触における「同意」について書いている。
【2023年4月23日付朝日新聞朝刊「『性的同意』って? 伝えたい」】

閉じたあとに残ったトピックス

 いま私の手元に、[男に異存はない。性の話。]のテクストのために以前書いた、まだ全く清書されていない覚書程度のメモが、2つばかり残ってしまっている。
 一つは、「話し合ってみよう、答えがない事柄に対して」と仮題の付けられた、「男らしさ」をテーマにしたメモ。それからもう一つは、「男がパンツを買うということ――神よ、われわれに正しい下着に関する知識を与え給え」。
 「男らしさ」の方のメモには、自身の乱筆でこんな文が記してあった。《自己同一性、自己肯定感を喪失する可能性》。また、《ふるまいながら、考えながら、悩みながら自分なりの着地点に到達する》《安定感、自己肯定感が生まれる、自分であるということ》――。これだけでは何のことかわからないと思うが、ともかく、「男らしさ」をテーマに執筆するつもりでメモがぎっしりと書かれており、このメモはいったいいつ書いたものなのか、今となっては日付が添えられていないので、よくわからない。
 もう一つの方のパンツ(下着)の話は、いずれこのブログで書こうとは思っている。ただし、少し――いや、かなり性教育という観点からは脱線した内容になるだろう。もう私は、性教育から少し距離を置くべきというか、個人的な新しいポリシーとしたうえで、もともと教育者ではないのだから、一文筆家として「性教育から脱却する」というのが、大人である私自身の新しいふるまいになっていくだろう。この点において、もう他者にセクシュアリティ教育の有無を、押しつけることはないと思う。たぶん。
 ということで末筆。
 大人も子どもも、「幸福」と「人権」と「ジェンダー平等」を念頭に、ふくよかな日常を送ることを旨とし、新しい未来を築いていきましょう――。はい、これが最後の押しつけです。そう、そう、そんなふうに、ささやかに、願うばかりなのである。

追記:文中にあるパンツ(下着)の話はこちら――「人新世のパンツ論①」

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